- 岡崎乾二郎氏: 「震災前に作られた作品を出すべき。事故後の変節は反省ですらない」(togetter)
直接には作品活動の話だが、あらゆる人に問える。
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- 事故後のダメな変節は、「想定外」の連呼や、お涙ちょうだい路線だろう。 しかし例えば、《病気をきっかけに、病人として置かれた状況について考え始めた》というケースは、責められるべきではない。それが変節だったとしても、アリバイ作りとは別の活動になっている。この違いが極めて重要。 ▼そう考えれば、岡崎氏が変節と呼ぶものは、じつは変節を拒絶している姿。
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- アクシデントの後も作品はつくられ、活動は続いてゆく。 では私的なアリバイ作りと、真に批評的な介入とは、どこが違うだろう。
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- 分岐点は、反復される《おのれの素材化》にある。 自慢話、お涙ちょうだい、アリバイの誇示には、これがない*4。
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- ここでは、新しい社会化、新しい社会性のスタイルが提案されている。
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- 東電は、限界の繰りこみと自己検証を拒絶した事故前のあり方(≒社会化の方針)を、臆面もなく続けている。 大きな流れとしては、鉄面皮が通ってしまう。それをどうするか、という問いは、そのまま残っている。
*1:「gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens」 「materiellen Lebens」(参照)
*2:予測できたはずのことを「なかったこと」にしてやってしまっていたならば、そのことも含めて、「すべて想定内の振る舞い」だった。
*3:名詞形の当事者論では、むしろ「万能感による威圧(脅迫)」になってしまう。 ▼いま私が困惑しているのは、強制力の扱い【参照1】【参照2】。 「暴力なしにはどうにもならない」という認識は、自分の限界を知ることに等しい。 「説得すれば分かってくれるはず」というのは、むしろ万能感にあたる。
*4:事故や病気を契機に自分で自分を特別扱いしたり、《かわいそうな当事者》を特別あつかいして正義になれると思う安易さ、ズルさ。 「マイノリティ憑依」(参照)。