限界はどう繰りこまれていたか

直接には作品活動の話だが、あらゆる人に問える。

    • 一撃をくらったことで、事故前にどんな限界が繰りこまれていたか、検証されることになる。作品活動に留まらず、唯物論的な生活実態(物質的生活の社会的生産)*1そのものについて、同じことが検証できる。事故前に、何をやってしまっていたのか――《つくる活動》として。
    • 事故後のダメな変節は、「想定外」の連呼や、お涙ちょうだい路線だろう。 しかし例えば、《病気をきっかけに、病人として置かれた状況について考え始めた》というケースは、責められるべきではない。それが変節だったとしても、アリバイ作りとは別の活動になっている。この違いが極めて重要。 そう考えれば、岡崎氏が変節と呼ぶものは、じつは変節を拒絶している姿。
    • 災害前の段階で、災害を織り込んだ態勢づくりが必要だった(事前の作品構造が問われている)*2。 自分は、おのれの死や限界に、ということはおのれの条件に、技法レベルで向き合えていたか。アクシデントの前から、おのれの編成に限界を繰りこむこと――これは《当事化》の技法にかかわる。幼児的万能感とは真逆のこと。*3
    • アクシデントの後も作品はつくられ、活動は続いてゆく。 では私的なアリバイ作りと、真に批評的な介入とは、どこが違うだろう。
    • 分岐点は、反復される《おのれの素材化》にある。 自慢話、お涙ちょうだい、アリバイの誇示には、これがない*4
    • ここでは、新しい社会化、新しい社会性のスタイルが提案されている。
    • 東電は、限界の繰りこみと自己検証を拒絶した事故前のあり方(社会化の方針)を、臆面もなく続けている。 大きな流れとしては、鉄面皮が通ってしまう。それをどうするか、という問いは、そのまま残っている。




*1:「gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens」 「materiellen Lebens」(参照

*2:予測できたはずのことを「なかったこと」にしてやってしまっていたならば、そのことも含めて、「すべて想定内の振る舞い」だった。

*3:名詞形の当事者論では、むしろ「万能感による威圧(脅迫)」になってしまう。 いま私が困惑しているのは、強制力の扱い参照1】【参照2。 「暴力なしにはどうにもならない」という認識は、自分の限界を知ることに等しい。 「説得すれば分かってくれるはず」というのは、むしろ万能感にあたる。

*4:事故や病気を契機に自分で自分を特別扱いしたり、《かわいそうな当事者》を特別あつかいして正義になれると思う安易さ、ズルさ。 「マイノリティ憑依」(参照)。