説明なし、従え、のところは必ず軍隊のようになる。俺はもうそれが心の底から嫌いだから、そういう要素が少しでもあるところにはいられない。一度も運動部には入ったことがないが、そういう要素がありそうで、いやだった。まぁ、運動が苦手ってのがいちばんの理由だけど。
2012-04-07 02:50:02 via web
問題なのは、そういう環境が大好きで、唯々諾々と命令に従い、その上に時間が経つとそんな過去を懐かしんでしまう「下」の人間が結構多いこと。 "@lethal_notion: 説明なし、従え、のところは必ず軍隊のようになる。(以下、省略)"
重要なご指摘です。僕の専門に絡めて言うと、フーコー的な権力論の限界、ドゥルーズ的な欲望論の重要性に関係します。どうして人間は進んで従おうとするのか、それが問題なんですね。権力論だといつまでたっても「イヤだけどやらされている」状態しか論じられない。 @sugimoto_t
2012-04-07 10:13:51 via web to @sugimoto_t
@lethal_notion そうかな。。?
権力は、「イヤだけどやらされている」状態に限らない。
欲望や関係性があるパターンを踏襲しているとき、それはすでに権力を生きている。*1
私たちは、常にすでに何らかの強制をかけ合わなければ、集団で同じ地球に(あるいは同じ集団に)暮らすことができない*2。 だから私たちは、「抵抗する方法」を研究すべきというよりは、自分と周囲に 《いかに強制するか》 の技法をこそ研究しなければならない。*3
正当に見える理論的考察それ自体が、すでにどんな権力を(スタイルとして)設計しているか。
一つひとつの概念は、文体のあり方まで規定してしまう。 《考察》は、すでに文体(style)を持っている。
「欲望のままに」やることは、すでに他者との関係の中にある。
それは権力のあり方として、間違っていることがある。
だから考えるべきは、権力批判というより、《権力のやり方》。
生きることは、ひたすら「とばっちりのかけ合い」なのだ。
エコール・ノルマルはフランスではない?
フランスでは遅くとも90年代からは文科系の優秀な人間は哲学や思想ではなく歴史をやるというムードだが、日本ではそれに追いつけていないし、そもそも追いつこうという気概もなさそうだな。
この2つのツイート(それぞれ別のかた)は、完全に矛盾してるように見えるんですが・・・
「ラカン派」にしても「歴史をやる」にしても、理論のスタイルは無自覚に決まっていて、
理論的に考えること自体のスタイルこそが最も喫緊のテーマなのだ、という議論にはなりそうにない
――と、そう見えてしまうんですが。
興味のあり方は文体の選択を含んでいて、引き受けようとする権力の(≒技法の)選択になっている。
研究するより前に、問いを抱いた時点ですでに設計は終わっていることに気づくべき。
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- 【追記】: 技法は、それを生きる本人にとっての臨床的な効果にもかかわる。 技法は、《確立されたパチンコ玉のような自分 → 外部の誰か》 というだけのものではない。 おのれそのものの制作技法の問題でもある。 それをおこなう本人にとって外部的すぎる《技法》は、言い訳のようなものでしかなく、適切に維持できない。
*1:意識のありようとしてすら、私たちはすでに一定のパターンを踏襲しているし、そうでなければ、安定的に意識を生きることすらできない。何かに取り組むこともできないし、欲望を持つこともできない。
*2:「権力にいかに抵抗するか」みたいな話をしている人も、誰かに向かって「そんな言動は許されない」とか言うはず。
*3:技法というのは、その通りにやらないと破綻する回路のことだから(参照)、「正しい強制論は、技法論としてしかやりようがないのではないか」というのが、今のところの見立て。▼たとえば精神分析の技法は、転移関係なしには成り立たない。そして、「いくら言っても聞いてもらえない」というのは、多くの人が感じていること。つまり技法論には、ルサンチマンという巨大な問題がかかわる。