私もあなたも、すでに権力を生きているし、生きざるを得ない




権力は、「イヤだけどやらされている」状態に限らない。
欲望や関係性があるパターンを踏襲しているとき、それはすでに権力を生きている。*1


私たちは、常にすでに何らかの強制をかけ合わなければ、集団で同じ地球に(あるいは同じ集団に)暮らすことができない*2。 だから私たちは、「抵抗する方法」を研究すべきというよりは、自分と周囲に 《いかに強制するか》 の技法をこそ研究しなければならない。*3


正当に見える理論的考察それ自体が、すでにどんな権力を(スタイルとして)設計しているか。
一つひとつの概念は、文体のあり方まで規定してしまう。 《考察》は、すでに文体(style)を持っている。


「欲望のままに」やることは、すでに他者との関係の中にある。
それは権力のあり方として、間違っていることがある。
だから考えるべきは、権力批判というより、《権力のやり方》。
生きることは、ひたすら「とばっちりのかけ合い」なのだ。



エコール・ノルマルはフランスではない?

この2つのツイート(それぞれ別のかた)は、完全に矛盾してるように見えるんですが・・・


ラカン派」にしても「歴史をやる」にしても、理論のスタイルは無自覚に決まっていて、
理論的に考えること自体のスタイルこそが最も喫緊のテーマなのだ、という議論にはなりそうにない
――と、そう見えてしまうんですが。


興味のあり方は文体の選択を含んでいて、引き受けようとする権力の(技法の)選択になっている。
研究するより前に、問いを抱いた時点ですでに設計は終わっていることに気づくべき。

    • 【追記】: 技法は、それを生きる本人にとっての臨床的な効果にもかかわる。 技法は、《確立されたパチンコ玉のような自分 → 外部の誰か》 というだけのものではない。 おのれそのものの制作技法の問題でもある。 それをおこなう本人にとって外部的すぎる《技法》は、言い訳のようなものでしかなく、適切に維持できない。


*1:意識のありようとしてすら、私たちはすでに一定のパターンを踏襲しているし、そうでなければ、安定的に意識を生きることすらできない。何かに取り組むこともできないし、欲望を持つこともできない。

*2:「権力にいかに抵抗するか」みたいな話をしている人も、誰かに向かって「そんな言動は許されない」とか言うはず。

*3:技法というのは、その通りにやらないと破綻する回路のことだから(参照)、「正しい強制論は、技法論としてしかやりようがないのではないか」というのが、今のところの見立て。たとえば精神分析の技法は、転移関係なしには成り立たない。そして、「いくら言っても聞いてもらえない」というのは、多くの人が感じていること。つまり技法論には、ルサンチマンという巨大な問題がかかわる。