笑いの難しさ

愛とユーモアの社会運動論―末期資本主義を生きるために

愛とユーモアの社会運動論―末期資本主義を生きるために



著者からご恵投いただき、読み始めたら、一日でほとんど読んでしまった。
すごく勉強されていて、ご自身がイタリアや韓国に足を運んでいるし、
現在の左派にどんな議論や活動があるかを知るには、ちょうどよい読み物だと思う。
第7章から読み始めることを、強くお勧めしたい。著者の「なりゆき」のスケッチであり、きっと本書も、その延長上にあるのだと思う。 《場所》を支える、という氏の活動に、私も恩恵を得ている。
本書からは、《労働》を話題にしてよいのだ、という元気をいただいた。と同時に、反論したいことがたくさんある。また議論をご一緒できることを期待しつつ、以下ではいくつか、メモ的に記しておく。



《技法》

本書の基本的な立場は、以下の二つに集約できると思う。*1

 ユーモアは、息詰まる状況の堅苦しさを一時的にキャンセルする笑いを引き寄せるために、今後ますます重要となる生活技術である。 (p.8)

 わたしは、資本主義を徹底的に批判することによってその破壊的創造力=潜在力を徹底的に解放する可能性を追求してみたいとも思っている。わたしは、この立場を「アナルコ日和見主義」(anarcho-opportunism)と称している。アナルコ日和見主義は、グローバルな企業による資本主義的暴虐を批判すると同時に、批判的な運動こそが資本主義の破壊的創造を可能にするのだとも煽っている。資本の運動と反システム運動の両方に加担する点で日和見主義的であるとともに、とりあえず現状を打破することならなんでもやってやろうという意味ではアナーキズム的でもある。 (p.162)

私はこれを、《技法》として検討したい。 つまり、いきなりスローガンに向かう前に、
彼が「生活技術」と呼ぶものをどう設計するのか、そこに留まりたい。
スローガンの手前で、《技法》そのものを、主題として措定したい。



《途方もない実践》

 労働組合運動をはじめとする権利獲得のための地道な努力はいうまでもなく重要である。だが同時に、地道なきまじめさを忘れるような突拍子もない言葉と表現も発していきたいのである。権利獲得のための地道な闘争は、ひとまず現状の政治的枠組みのなかで追求される。個別具体的な実践として、それは現実的な戦略である。だが同時に、既存の枠組みそのものを変えることも展望したい。現実的な戦略と同時に、「現実的」の中身を切り開いていくような、途方もない実践を同時にやっていきたいのである。 (p.100)

私は、《まじめさ 突拍子もなさ》 の対比に、
自分の置かれた状況や主観性の生産そのものに対する、分析そのものの生成*2を介入させたい。
というか、私はそういうあり方しかできない。
分析の内発性を生きてしまう、だからどこにも溶け込めない――そこで私が抱える身体性は、すごく政治的だと思っている。


上の箇所につづけて、渡邊氏はこう記している:

 わたしの立場は、主観性の生産をめぐるガタリの議論に依拠している。ひとを萎えさせ、よろこびを奪い、活動性を委縮させる言説の数々に対抗して、よろこびと愛を、より大きな活動性をもたらすような愉快な主観性を増殖させてゆきたい。

私にとっては、内発的な分析の生成こそが、よろこびであり、愛の活動にかかわるかもしれない。
私がグァタリを読み進めるにあたって、じつは渡邊氏のブログが大きなきっかけを下さったのだが(参照)、
《主観性の生産》をめぐって、方針が分かれているかもしれない。
そこでこそ、《場所》の問題を検討したい。 私たちは、どんなふうに《場所》を設計しているか。



《笑い》

    • 《笑い》において、われわれは対象が突然その《内実》を失い、いわゆる《からっぽ》の存在と化したことをほとんど生理的な直接性のレベルで一瞬のうちに知覚するのである。 《笑い》とは実に、《現象学的リアリティを生理学的にキャンセルする》驚異のメカニズムなのだ。 (p.141、木村洋二笑いの社会学 (世界思想ゼミナール)』p.50 からの引用)

 〔・・・・〕 木村によれば、笑いは「愉快な無」である。わたしたちが笑っているあいだは、「いかなる図式も作動しない」。笑いは、認知・思考・判断・行為のすべてを停止させ、無の境地を実現する。わたしたちが笑っているときに出現しているのは、無にほかならないのである。 (p.144)

笑いは、無色透明ではない。 そこでは、あるスタイルの主観性が生産(再生産)されている。
つまり、「いかなる図式も作動しない」*3とは思えない。


たとえば、成功したお笑い芸人が必ず「ファミリー」になること。
強度をもった笑いには、共同体の形成機能があるのだ。
逆に言うと、体質的に相いれない共同体では、笑いを共有することができない。*4


笑いには、宗教のような機能がある。
つまり、 (1)存在の無規定性に触れる、 (2)人の紐帯になり得る。
「何にどう笑うか」が、ある場所や関係性の価値観を、如実に表現する。
ひとつの笑いに支配された場では、別のスタイルの問題意識を作ることは、ほとんどできない。それはまさに、異教徒の振る舞いになってしまう*5


本書には、反資本主義的な社会運動が笑いを伴いつつある、むしろ笑いをともなう必要のあることが、具体的事例とともに紹介されている。しかしこれは私からすれば、すべてが「わかりやすいフレーム」にかたどられた笑いであり、これを面白いと思える人たちの共同体を外から見ている気分に追いやられる*6
その笑い方が良いか悪いかという以前に、《笑いを共有できるかどうか》が、参加できるかどうかの決定的な分水嶺になり得るという視点が、この本からは感じられなかった。 著者が笑えることについては、「笑えるのが当たり前」という、検証されないままの前提が感じられた。――このままでは、ある共同体のスタイル(つながりの作法)が、自明視されてしまう。


本書に描かれたような、社会全体が価値増殖過程に巻き込まれる状況では*7、各人が分断され、笑いの前提を共有することも難しい。そこで、取りあえず笑えそうなことを無反省に笑うのではなく、別のあり方をできないものか。


昨今、愛の難しさはよく語られるが、笑いのむずかしさはあまり語られない。
そして、笑い「について」語ることと、実際に笑えることは、全くちがう。
そう考えてみると、笑いの難しさは、分析のむずかしさに似ている。



【追記 2012.5.5】

    • 《space=party》(p.121)に成立している制度をこそ分析しなければ。
    • 復唱するだけで承認を確保できるスローガン*8。 そうしたものでは、スローガン依存症の人を満足させるだけ。
    • 「できない」「やらない」ことを肯定するだけの運動や議論は、(1)身体的にすでにやってしまっていることを分析しない。 (2)事業の積極面については、なにも分析できていない。 イデオロギー的に正しいことは、問題が起こらないことを保証しない。 「政治的には正しいかもしれないが、実際にやろうとしたらうまくいかない」ことについて、なにも扱えていない。承認の回路が、スローガン主義に固着している。
    • 賃労働を否定しても、活動には様々な重労働がともなう。ところが、これを分析したり工夫したり、評価したりする文化がないために、ひたすら水面下に隠蔽されたところで「いつの間にかやらされている」ことになる。左翼系の活動は、搾取の温床になっている。
    • 《醗酵》というモチーフの興味深さ(p.179)。 単なる受動性ではない。
    • 労働過程における素材感の回復。 そこで技法が問われている。




*1:以下の引用部分で、強調はすべて引用者。

*2:本ブログで「制度分析」と呼んできたもの。

*3:この表現自体は、木村洋二笑いの社会学 (世界思想ゼミナール)』から引用されたもの。

*4:私にとってこれは、痛みをともなった強烈な体験的事実であり、ある種の笑いの傾向には、強い怒りを覚える。

*5:笑いの身体性には、方言のような地域特性がある。集団や関係性によって、笑いのツボが違う。

*6:思い出したのは、エスノメソドロジーにいう「文化的判断力喪失者(cultural/judgemental dope)」という言葉だった(参照)。 人はつい笑ってしまうが(あるいはどうしても笑えないが)、そのとき、どんな前提に巻き込まれているだろう。

*7:本書 p.66〜など

*8:サボタージュイノベーションである」(ネグリ)、「働かない者に賃金を」ほか