ヒトという場所での生成/制作

技法として創発する《真の父》 」について:

驚いて『見えるものと見えないもの』の索引を見たら、「象徴的母胎(matrice symbolique)」*1という言葉が数か所あった。よくわからず放置していた概念だ。周辺を読み直したら、たしかに生成とか話している。
それから数日、ご指摘を下さった廣瀬氏の論考を次々に読んでいた(参照)。 細かくはさらに解読を進めるが、


問題になっているのは、単なる物質や生体ではない、ヒトという場所の生成だ。生成というと「勝手にそうなってしまうもの」と考えがちだが、私たちの《意図的な努力》だって、テーマの圏内に入ってくる。


いわゆるジェンダーとはちがう仕方での、《自然と文化の交点》。
「父の創発」といっても、生物学上のオスではない。 「象徴的母胎」が、メスと関係ないように。
ヒトに起こっていること、そこにこれから起きる/起こすことは、物理法則を裏切りはしないだろうが、放置された物質過程でもない。単なる生物ともちがう。



《止まっていること》と、《動かす》ことは、臨床内部の思想にかかわる。

発達障碍的ふるまいは、静止画像に合わせるように課題に取り組む*2。 時間的な流れを、パズルのピースを合わせるモードでやってしまう。完成形がない場所に完成形を探し、「合わせようとする動き」そのものが、周囲から逸脱する。

社会性は生成の中にあるのに、《社会性なるもの》を固定してこれに合わせようとすると、支援事業そのものが、つまり臨床家や為政者たち自身が、発達障碍的にふるまうことになる。全体性の青写真のなかにピースを嵌めようとすること。

環境が発達障碍的だと、つまり「ルーチンをこなす」以外の発想を持てずにいると、臨機応変にやろうとした人が排除される。この部分を論じられない支援論は、状況を悪化させる機能をもつ。現実には、こういう支援事業にこそ予算がつきやすく見える。




存在と生成

メルロ=ポンティ見えるものと見えないもの』と、その原書『Le visible et l'invisible』から、いくつか引用してみる(強調はすべて引用者)。

 Wesen (動詞的)の発見: 〔このWesen こそ〕客体-存在でも主体-存在でもなく,本質存在でも事実存在でもない存在の最初の表現である. (p.246)
 Découverte du Wesen (verbal): première expression de l’être qui n’est ni l’être-objet ni l’être-sujet, ni essence ni existence (p.226)

Wesen を独和辞書で引くと、これは名詞で、(1)本質;実体;本性;本領.(2)在り方;人となり,人柄;態度,物腰.(3)活動,動き;騒ぎ.(4)存在者,生物;存在物,事物;事柄.(5)制度,組織.(6)家屋敷,不動産.
固まったものと,動きとが,同じ一語で名指されている.


この個所への邦訳者注(p.450)

 Wesen 〔現成〕(動詞的)――1930年以降のいわゆる後期のハイデガーの用語。この時期の彼の考えでは、形而上学の開始とともに存在は本質存在τό τί ἐστιν, essentia, Was-sein)と事実存在ὅτι ἔστιν, existentia, Daß-sein)に分岐する。あるいは、存在のこうした二義的分岐とともに存在の歴史が「形而上学」と呼ばれる時代に入ると言ってもよい。当然、それに先立つ《ソクラテス以前の思想家たち》のもとで存在を意味した phisis は、そうした二義的分岐を免れ、原初の単純性をとどめている。ハイデガーは、この phisis およびその動詞形 phyesthai の訳語に、動詞的意味での Wesen, wesen を当てる。ドイツ語の Wesen は通常は「本質」を意味するが、もともとは「存在する」という意味の動詞 sein の過去分詞 gewesen から派生したものである。この wesen は、二義的分岐に先立つ《本質存在を含意した事実存在》を指示するために、しかも生成するという意味のギリシャ語 phyesthai の動態的意味をも加味して、選ばれた訳語なのである。存在の根源的な生起を意味するこの言葉に適切な日本語を思いつかないままに、「現成する」という訳語を当てた。ハイデガーのこの語のもっとも早い用例は、"Einführung in die Metaphysik", 1953 (『形而上学入門 (平凡社ライブラリー)――1953年夏学期の講義)にみられるものであろう(ibid., S. 46f.)。

原書がないのでドイツ語を確認できないが,ハイデガー形而上学入門 (平凡社ライブラリー)』には「存在と生成」という節がある.

 存在と生成。この差別と対置は、存在について問うことの初めからある。これは今日なお、存在を他のものによって限定する場合の最も周知のものである。というのは、存在について、もはや自明なものとして硬化してしまっている一つの考え方があり、〔・・・〕その考え方というのは次のようなものである。すなわち、成るものはいまだない。あるものはもはや成る必要がない。「ある」もの、すなわち存在者は、それが、とにかくいったん成ってしまい、成ることができたならば、すべての生成をやめてしまう。本来の意味で「ある」ものはまた、生成が押しかけてくるのに抵抗する。 (p.160)



技法《について》研究することと、実際に技法として創発することの違い。
技法を研究することで,アクチュアリティを失う臨床家や研究者がいる*3
いっぽう、実際に重要な活動をする人は、必ずしも技法《について》研究しない。


ヒトには技法が必要だが、「技法を必要としている」という条件づけは変化していない。



*1:フランス語の「matrice」は英語だと「matrix」。

*2:私はここでも、現象に取り組もうとするときの思想的前提を問題にしたくなっている。つまり、「発達障碍者プラトン主義的」といったこと。

*3:そのときには,臨床家や研究者が発達障碍的にふるまっている。