お互いの当事化の技法を問うこと

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)



「マイノリティ憑依」というコピーは、上野千鶴子流の当事者論へのカウンターとして、本当にありがたい*1
本書は基本的に、弱者に肩入れすることで自分の正当性に居直る人たちへの警告となっている。


ただし本書で《当事者》という場合、「被害者・マイノリティ」という意味と、「関係責任を負う者」という意味が、あいまいに混同されたままだ。場面によって意味が違っていて、そのことに論述が対応しきれていない。


たとえば冒頭の「夜回りと記者会見――二重の共同体」は、報道業界の内情分析であり、佐々木氏ご自身の当事者性をもった(みずからの身体的な記憶に即した)分析がなされているが、そこで引き受けられた当事者性は、マイノリティ性ではない。 あるいは、

 本来われわれは絶対者ではない。絶対的な悪でもなく、絶対的な善でもない。その悪と善の間の曖昧でグレーな領域に生息している。しかしそのグレーな領域で互いの立ち位置を手探りでたしかめている状態、その状態こそが当事者である。(p.360)

これこそが、本書の基本となる主張だろう。
ところが佐々木氏は、実妹がバス放火事件に巻き込まれた報道写真家を取り上げて(参照)、次のように言う。

 当事者であることを引きうけるというのは、途方もなく重い人生を背負うということと裏腹だ。報道する側から当事者の側へと移行することを余儀なくされた石井義治の後半生は、それを象徴している。(p.446)

ここには、「ひどい目に遭った者だけが引き受けざるを得ない」というニュアンスがある。


本書のオビには、「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、…」 とある。これは、発言者すべてに悲惨な体験をしろという意味ではないはずだ。つまりこれは、「自分の置かれた状況を簡単に割り切らないで、何をやってしまっているか、考え直そう」という呼びかけだろう。 ところが佐々木氏は、次のように言う。

 私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。 (p.460)

これは矛盾だが、まさにこれこそが、現代的な葛藤だ。
本書の白眉は、この矛盾にこそある。


つまり佐々木氏は、「引きうけてほしい」と同じ意味で、「当事者であれ」と言っている。
そして、「引き受けてもらえずにいるのは、私の至らなさのせいだ」とも言っている。
この葛藤の中からこそ、技法や思想が必要になる。

  • 【メモ】:
    • 引き受けざるを得ないのは、ひとまず「ひどい目に遭った人たち」だろう。
    • 社会生活は、「とばっちりのかけあい」として成り立つ。自分に掛けられたとばっちりについて、責任者が知らぬ存ぜぬを貫くなら、責任追及という意味で相手を《当事者》にする必要が生じる*2
    • 相手を当事化できていないのは、おのれの戦術と技法の不足といえる*3
    • おのれを当事化する手続きが見つけられない場合(p.262)、手っ取り早く相手を「当事化する」のがテロだろう。いっぽう佐々木氏は、「自分の居場所を確認しないこと」がテロだ、という極めてうれしい指摘をしている(p.332)。 自分の足元を分析しない人は、ひたすら相手だけを《当事者》にしてしまう。ここでは、明示的暴力としてのテロと、問いを失った日常としてのテロが対比されている。相手を当事化することには、なにがしかの暴力が含まれる。


 彼伊丹万作はそしてこう続けた。――戦争の間、誰が自分たちを苦しめたのかと思いだすときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。(p.207)

ありがたいことに、至近距離の関係性が主題となっている。 cf.【つながりの作法

《ひとを当事化するスタイル》に、土着の思想や、理論上の立場が表現される。




左翼

ほんらいは大事な意義を担ったはずの左翼運動は、おのれの内部に醜悪な矛盾を抱えている*4
そのいきさつが本書では、「成り代わり糾弾=代行主義」(pp.327-329)の歴史として、描き出されている*5
左翼は、自分の言い分にだけは100%の正しさがあると主張することで、最悪の卑劣さを生きる*6


曖昧な責任を帯びた生活関係を《穢れ》と表現したことは、当事者論との関係における本書の功績だ。
《正しい指摘をする私は、穢れていない*7。私の理解を共有しないお前は、穢れている》――この許し難さ。


差別とは、メタ言説を口にして、おのれの関係責任を棚に上げることだ。
だからたとえば、弱者性の強調として「自分は当事者だ」を連呼する者は、最低の差別主義者であり得る*8
弱者を名詞形で肯定する本人の言説過程だけがメタに隔絶されている――これは、差別主義の再定義と言える*9。この差別過程は、おのれを宗教儀式として反復する(第五章「穢れ」からの退避)。



学問

アカデミズムと調査対象者の関係については、本多勝一山口昌男の論争が取り上げられている(p.311)。

 共感しながら住んでいる人たちの価値体系に染まるのは、よくあることだ。カッシングは自分が研究したズニ族の宗教に没入して、ズニ族の人たちから彼らの宗教の司祭だと見られるまでになった。彼はそれで自分を俗化しようとは思わなくなってズニ族に関する人類学的な報告を書けなくなってしまった――。〔・・・〕 山口はこんなふうに書いている。――人類学の根底には、ヨーロッパ的な近代社会が持っていない人間や社会への新しい視線を学ぶことによって、近代社会の閉ざされた論理を克服し、調査対象だけじゃなく「自分自身」もより深い基盤のなかでとらえなおそうという志向がある。だから「すぐれた人類学」というのは、自分の価値で他者をはかるのじゃなく、他者を媒介として自分をはかり直すところにあるのだ、と。 (pp.315-316、強調は引用者)

私が学問に望んでいるのは、まさに最後の一文だ。
しかし知識人たちは、メタ言説のナルシシズムに居直るだけで、自分の足元を検証しようとはしない。
業績や俯瞰目線を押しつけるだけで、彼ら自身が、メタ言説の嗜癖者(という弱者)として現れている。


上の引用にある「人類学」は、昨今の流行からすれば「社会学」に置き直した方が、指摘の意義が高まるように思う。それとも「論じている自分のことを話題にできるかどうか」に、人類学と社会学のちがいがあるのだろうか*10

たとえば社会システム論的な言説は、「すべてはシステムの作動であり、根拠づけの底は抜けている」という。しかしこれでは、「根拠づけできない」ことじたいが、システム論(というメタ言説)に居直る自分を根拠づけてしまっている。何を言ってもシステムのふるまいだから、自分には何の責任(当事者性)もない。いくらでも下らないメタ言説でインテリごっこができる――この居直りには、重大な当事者責任がある*11


ここで考えるべきなのは、理論的な立場が、各人の責任配分を変えてしまうことだ*12
メタ言説と対象との関係を組み直そうとすることにこそ、理論の担うべき責任がある。
私はそういうことを考えざるを得なくなっている。




本書全体を通じて問われているのは、再帰的に選ばれたのではない当事者性の析出だと思われる。

私はそういうメッセージにおいてこそ本書を人に薦めたくなったのだが、誤解だろうか。




【メモ】

  • ダメな権力は、自分の責任を棚に上げて相手を当事化する。自分にやれることを探さない。
    • 権力が自分で当事化することはないと考えると、三権分立のような設計が要る。
  • メタ言説や、名詞形の当事者ポジションに居直った者は、自分の関係責任を分析しない。つまり、神は当事化しない。




*1:上野千鶴子・中西正司『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』は、本人が自分の問題に取り組む話なので、マイノリティ憑依とは違うように見える。しかし彼らは、名詞化した自分を絶対化し、そこに憑依している。要するに《当事者主権》とは、自分を神にすることなのだ。そもそも私たちは、主権者をやめることなどできない(湯浅誠)。
  cf.貴戸理恵氏と東京シューレの事案においては、「当事者の言葉」と、「当事者の存在」とが、鋭い緊張関係にあった。運動体としてのシューレは、みずからの抗議文に手記として登場させた「当事者の言葉」を、「意味的抵抗を無化する《存在》」として扱った。それは言葉でありながら、《存在》として扱われた(菊の御紋のように)。(「存在と言葉」より)

*2:「驚くべきことに、この隠退蔵物資事件では犯人は誰ひとり起訴されないまま終わった。なぜかと言えば、官僚の上から下まで、政治家から警察官、元軍人とありとあらゆる人たちがこの不正に手を貸していたため、摘発しようがなかったのである」(『「当事者」の時代 (光文社新書)』p.202)。 多すぎる人間のからむ犯罪は摘発されない。

*3:「当事者」という名詞形は、官僚のような手つきで役割配分をすることになるので、自分を含む各人を《当事化する》として、動詞形で考えようというのが私の提案。責任論は、名詞形(カテゴリー)に落とし込んでしまうと、議論の設計を間違う。名詞形とは別の責任論が要る(そこでは、至近距離に内在的な考察と、政策論的な研究との往復が必要になる)。 これは本書中ほどの問い、「自分自身がどう当事者として向き合うのか」(p.239)への、私なりの回答になる。

*4:評者である私自身、この十数年で最悪の差別や暴力は、左翼からやってきた。左翼のコミュニティは、原理的に差別と脅迫で成り立っている。このことがいまだに議論できない、それほど左翼は歪んでいる。彼らは、20世紀最悪の殺人思想に居直っているのだ。

*5:プロレタリア概念はマルクスだから日本独自ではないし(p.272)、「調査する側/される側」も、日本だけではない。こうした枠組みについては、世界中の言説状況で検証が必要だ。しかし、日本の固有名詞に即した説明は収穫だった。

*6:津村喬(つむら・たかし)氏が責任という意味での当事者性を論じた後、身体性の尊重として気功に向かった(参照)という話は気になった。責任を引き受け直すことには、身体性の生き直しのようなところがある。

*7:左翼の飲み会が差別発言にまみれているのは、彼らだけは「100%清浄」なので、差別をしても許されると思っているのだろう。

*8:不当な弱者利権はそこに生じる。

*9:「患者」ポジションを肯定する医療・福祉関係者の言説も、そうした差別言説であり得る。彼らはそれを、職業的倫理性と勘違いしている。

*10:以前に研究者のかたに質問したことがあったが、人類学と社会学のちがいは良く分からなかった。

*11:たとえば一部でささやかれているのは、調査・報道をおこなう人たちの《すり寄り》だ。佐々木氏の本では、報道関係者の当事者性が肯定的に描かれていたが(p.451)、これは逆に言えば、相手とおなじ当事者性を表明すれば、調査するコミュニティに紛れやすくなるということ。それを逆手にとって、作為的な演技をする者が現れる。当事者性を主張して相手のコミュニティに取り入り、おいしい汁を吸い終わった時点で学者ヅラして居丈高にふるまう。これは、調査における詐欺的な搾取といえる。こういう手合いは、メタ言説の権威性と《当事者》権益の両方を手に入れるが、必要なのは逆の努力だろう。つまり、自分の乗っかるメタ言説の権威性を疑い、《当事者》を名乗ることの権益性を疑うべきなのだ。

*12:単に量的な配分ではなく、責任追及のメカニズムそのものを変えてしまう。責任は単に量的なのではない。設計図がある。