《仲裁》という最悪の欺瞞

食事時にたまたま観た番組が、個人的にタイムリーだった。

焦点は、「強制的仲裁条項(Mandatory Arbitration)」(参照)。

いろんな契約書に小さい文字で書かれていて、いつの間にか同意したことになっている。
たとえば雇用契約では、従業員は「企業を訴えることができない」立場になっている。どんな酷い目にあっても、裁判は許されず、《仲裁 arbitration》による処理が強制される。 当然、仲裁人は企業が用意するので、証拠隠滅も平気で行われる*1


企業側に不利な結論を出せば、仲裁人じしんが排除されるので、みんな企業側(お金+権力)に有利な結論を出して、自分を守ろうとする。 番組紹介によると以下の内容もあったらしい。

 企業サイドに有利な司法制度の改革に反対する判事は、〔・・・〕 容赦ないネガティブ・キャンペーンを受ける。

裁判官も企業の腕力に巻き込まれる。


私はここ数年、フランスの文脈を参照して《制度分析 analyse insitutionnelle》という考え方に取り組んできたが、ずっとネックになっていたのが、意思決定の問題だった(参照)。

たとえば職場で問題が起こったとき、関係者どうしの話し合い(≒仲裁)でうまく回るだろうか。誰かが重要な発言をしても、それは他の誰かにとって都合が悪い。証拠提出を重ねる話し合いは、自前の裁判みたいになるが、どこにも外部性が担保されず、強制力もないので、いくらでも不正ができる。

制度論は、さまざまな利害の絡みついた制度を分析し、組み替えようとするので、じつは《革命》の要因を帯びる。 それは「資本家 vs 労働者」だけではない。反復される人の関係性には、つねに利害の拮抗がある。


番組では、《仲裁》という手続きがいかに不当で隠ぺい工作に満ちているか、醜悪な実態が語られていた。 強制的な第三者の介入がなければ、ひとはすべてを誤魔化しにかかる(意識的、無意識的に)。


私は今後も、制度論に興味を寄せ続けるだろう。しかし私は、「たんなる話し合い」には期待できない。それは往々にして、既存の思い込みと力関係を反復するだけだ。――ちょうどそういうことを考えていたときに、この番組に出会った。



*1:番組が取り上げた事例では、レイプ被害を訴える女性が診断結果を会社側に “紛失” され、刑事裁判に持ち込むことができなくなっていた。彼女は民事裁判に出ようとするが、「強制的仲裁条項(Mandatory Arbitration)」の縛りによって、裁判そのものができない。その後ようやく裁判にはこぎつけるが、2011年7月に敗訴(参照)。