逸脱的であることへの技法

先日のエントリ「現実を対象化する技法」に関連して、志紀島啓さんに質問したところ、
ていねいにお返事をいただきました(ありがとうございます)。

発達障碍、神経症、精神病について - @kay_shixima さん(togetter)

以下、拝読してのメモです。

    • (1)「スキゾは派手な症状を出すが、アスペにはそれがない」とすると、派手な症状がないとされるふつうの精神病」(参照は、ますます発達障碍に似てくる。
    • (2)「女性になる/神の女にさせられる」が別であるように、「スキゾ的になる/スキゾにさせられる」は、ぜんぜん違うこと。ドゥルーズガタリ神経症圏のひとたち。
    • (3)臨床像を分類する必要はあるが、その分類努力がすでに、方法上の態度決定のあとの姿、という面がある。分類については、介入技法(処方箋)との関係で、そこからさかのぼって考えたい*1
    • (4)市田良彦革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)』を読み終わったばかりなので、《原理原則 →法の外である正義 →革命》 という連想が。 晩年のアルチュセールが、特異なものへの関係一般を 《治療 traitement》 概念で扱うようになったらしいこと。つまりアルチュセールには、《原則の外との関係》で主体側が媒介的に引き受ける生成はない。 《原則とその外との関係》は、革命の問題であると同時に、個人のレベルでは、臨床や倫理の問題となる。逆に言うと、主観性をめぐる臨床は、《原則の外》を政治性を持って扱うことを許すのかどうか。たんに許さないなら、政治性を持ちこんだ者は、「人格障害」で処理される。 逸脱経験を打ち明けている私が懸念しているのは、自分の問題提起が「人格障害」で処理されがちであること。とくに官僚的原理原則以外が意味を持つと思えない発達障碍的)な研究者は、政治性をふくんだ問題提起を制度的に潰しにかかる。――そう考えると、《官僚的発達障碍的》という表現は、逸脱者を描くと同時に、極端な順応者を描くことにも適している。これは、ひきこもる人の両義的なメンタリティを描いてもいる。
    • (5)《法の外》である正義や革命に、厳格さが必要ないということではない。むしろ《技法》という概念で、厳格な命令が導入され得る(これは美術家・岡崎乾二郎の発想)*2
    • (6)順応と政治のあいだで苦しむ本人側の、主体化の方法論(処方箋)として、《技法》 という概念を参照したい。 《 technique 技法 / algorithm アルゴリズム / method 方法 》 と分けると、「技法」が最も、身体性をともなった《つくるプロセス》の様式に着眼した概念に思える。 逆に「アルゴリズム」には、主体化の要因がない。


そこまで記したうえで、志紀島さんからの問いかけについて:

こう問われてみて、あいまいにしか考えていなかったことに気づきました。
私は発達障碍というカテゴリーそのものを、《人はそもそも、逸脱せざるを得ない》という観点から、極端に懐疑的に見たままであるということです。政治的に取り組むべき技法の問題を、生物化しすぎていないのかどうか(逆にいうとカテゴリ化や技法は、明白に政治的論点である)。 この自分の不信感に、ようやく意識レベルで取り組めそうです。


ひとまず、《集団に適応できない》をめぐるいくつかの記述について、「孤立してしまう」「共感的関係に入ることができない」といったレベルで、自分の困惑の焦点を名指されたような感覚になっていたのだと思います*3
今回志紀島さんから、「想像的他者認知の有無」という着眼をいただいたことが重要で、たしかに私は、人のかかわりに入ろうとするとき、想像的他者認知で苦しんでいます。

  • 【付記】
    • たとえば私は、講演等で発達障碍に言及するとき、「解説書を読んでると、《自分にもある》と感じることが多いですが」とよく言うのですが、こういうとき、親御さんをふくむ複数の聴衆が、苦笑してうなずきます。
    • 診断の現状でいうと、発達障碍の専門医として予約でいっぱいという杉山登志郎氏は、ご自身の「不登校外来」を訪れる子どもたちのが、発達障碍だと言明しています(参照)。 またある地域では、不登校児童をほとんどすべて発達障碍と診断した医師もいると聞いています。




*1:集団適応ができないで途方に暮れている人たちにとって、発達障碍という枠組みは、依存症的に表明されている傾向も感じます。その依存症傾向と、「人を分類して論じたがる」という官僚的研究者たちが、共依存関係にある。私はカテゴリー思考から、《技法の思考》に向かいたい。

*2:絵画の準備を!』pp.392-393

*3:またその同じ理由で、スキゾ系の問題圏も見ていた。