先日のエントリ「現実を対象化する技法」に関連して、志紀島啓さんに質問したところ、
ていねいにお返事をいただきました(ありがとうございます)。
「発達障碍、神経症、精神病について - @kay_shixima さん」(togetter)
以下、拝読してのメモです。
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- (3)臨床像を分類する必要はあるが、その分類努力がすでに、方法上の態度決定のあとの姿、という面がある。分類については、介入技法(処方箋)との関係で、そこからさかのぼって考えたい*1。
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- (4)市田良彦『革命論 マルチチュードの政治哲学序説 (平凡社新書)』を読み終わったばかりなので、《原理原則 →法の外である正義 →革命》 という連想が。 晩年のアルチュセールが、特異なものへの関係一般を 《治療 traitement》 概念で扱うようになったらしいこと。つまりアルチュセールには、《原則の外との関係》で主体側が媒介的に引き受ける生成はない。 ▼《原則とその外との関係》は、革命の問題であると同時に、個人のレベルでは、臨床や倫理の問題となる。逆に言うと、主観性をめぐる臨床は、《原則の外》を政治性を持って扱うことを許すのかどうか。たんに許さないなら、政治性を持ちこんだ者は、「人格障害」で処理される。 逸脱経験を打ち明けている私が懸念しているのは、自分の問題提起が「人格障害」で処理されがちであること。とくに官僚的(≒原理原則以外が意味を持つと思えない≒発達障碍的)な研究者は、政治性をふくんだ問題提起を制度的に潰しにかかる。――そう考えると、《官僚的≒発達障碍的》という表現は、逸脱者を描くと同時に、極端な順応者を描くことにも適している。これは、ひきこもる人の両義的なメンタリティを描いてもいる。
そこまで記したうえで、志紀島さんからの問いかけについて:
こう問われてみて、あいまいにしか考えていなかったことに気づきました。
私は発達障碍というカテゴリーそのものを、《人はそもそも、逸脱せざるを得ない》という観点から、極端に懐疑的に見たままであるということです。政治的に取り組むべき技法の問題を、生物化しすぎていないのかどうか(逆にいうとカテゴリ化や技法は、明白に政治的論点である)。 この自分の不信感に、ようやく意識レベルで取り組めそうです。
ひとまず、《集団に適応できない》をめぐるいくつかの記述について、「孤立してしまう」「共感的関係に入ることができない」といったレベルで、自分の困惑の焦点を名指されたような感覚になっていたのだと思います*3。
今回志紀島さんから、「想像的他者認知の有無」という着眼をいただいたことが重要で、たしかに私は、人のかかわりに入ろうとするとき、想像的他者認知で苦しんでいます。
- 【付記】
- たとえば私は、講演等で発達障碍に言及するとき、「解説書を読んでると、《自分にもある》と感じることが多いですが」とよく言うのですが、こういうとき、親御さんをふくむ複数の聴衆が、苦笑してうなずきます。