プロセスについての超越論性

以下の引用は、ガタリの論考「ジェラール・フロマンジェの『夜、昼』」(1984年)より。*1
邦訳『闘走機械』と、原書『Les années d'hiver 1980-1985』のページ数を記しています*2

 彼は、描くという行為の画家である。英米言語学者が言表行為を「スピーチ・アクト」というのと同じような意味での、「ペインティング・アクト」。(pp.230-231)
 Il est le peintre de l’act de peindre. Painting act, au sens où les linguistes anglo-américains de l’énonciation parlent de speech act. (p.258)

 フロマンジェのリアリズムは〔…〕、支配的な現実や意味作用をどう処理するのか、という実験として成り立っている。それは、新しい絵画的資材を(鉱石のように)採掘することを眼目としている。(p.230)
 Le réalisme de Fromanger 〔...〕 a consisté plutôt en une expérience de traitement des réalités et significations dominantes, afin d’en extraire, comme d’un minerai, de nouveaux matériaux picturaux. (p.258)

 フロマンジェとともに存続する唯一の真の問題は、言表行為のプロセスの側にある。(p.232)
 ...le seul vrai problème qui demeure, encore et toujours, avec Fromanger, se trouve du côté des processus d’énonciation. (p.261)

    • 「言表行為」と訳した「énonciation」。 contractioさんのエントリをみると(参照)、《考えの述べ方, 陳述の仕方》という意味があるようです。

 私たちは、身体的再構成、および絵画的言表行為の再創設を、目撃している。確固たる表象を複写することは、もはや問題ではない。主体化の新しい様式の創造プロセスを地図化することが問題なのだ。(p.234)
 On assiste 〔…〕 à une recomposition corporelle et à la refondation d’une énonciation picturale, où il ne sera plus question de décalquer des représentations fermées sur elles-mêmes, mais de cartographier des processus créateurs de nouveaux modes de subjectivation. (p.263)



私は、ベタに自らを社会化するのではなく、社会化という行為そのものを描きだし*3
そこで社会性を、新しい様式で再創設しようとしている*4


臨床家も知識人も、《結果物》の吟味ばかりやっている。
それゆえ、自分が反復するプロセスについて、条件を吟味できない。



超越論哲学は、生身の生産様式

東浩紀は、ドゥルーズデリダを対比させつつ、「単一の超越論性と複数の超越論性」を語るが、ガタリは、論じるプロセスそれ自体についての超越論性を要求する。 「単数か複数か」ではなくて、構成プロセスの様式や条件づけを問うているのだ。
いくらたくさんあっても、同じ様式が乱立するだけではどうしようもない。


プロセスについて超越論的な意識をもつとは、逃れることのできない次のような条件を、忘れないということ。

    • おのれの分析作業そのものにマテリアルな身体があり、具体的な生産様式を生きている*6
    • その様式は、みずからにふさわしい生産関係を生きる。 【様式と関係のカップリングとしての、《つながりの作法》】



上の動画(1時間02分30秒あたり〜)で東浩紀は、

 ハイデガードゥルーズのような「一つの超越論性」と、デリダ的な「複数の超越論性」がある。自分は後者。

というのだが(大意)、そう指摘する彼自身の声は、一つの超越論性の側にしかいない。
それについて彼は自分で、「こんな話をすること自体が、複数的超越論性への裏切りの気がする」というのだが、その気づきは放置されるだけで、二分法で語りがたる彼自身の生産様式が再編されることはない。
これは斎藤環にも言えることだが、「おちゃらけてフレンドリーな態度」は、自分の生産様式についての問いを拒絶する姿であり、周囲にとってはきわめて抑圧的と言える。


それゆえ本当に注目すべき立場の違いは、「単数か、複数か」ではない。
みずからのプロセスの様式を超越論的に問うているか、いないかにある。


単に「ネタを生きる」ことは、原理的にできない。
ネタをやる素振りそのものが、マテリアルな身体性を生きてしまっている。



*1:画家のジェラール・フロマンジェの作品: 画像検索 Youtube検索

*2:フランス語原文を参照し、やや訳語を改変した。また強調は、すべて引用者による。

*3:「スピーチ・アクト」と同じような意味での、「ソーシャライジング・アクト socializing act」。

*4:この場合の「様式 mode」は、マルクスの「生産様式 mode de production」と同じ語である。

*5:※対談全編のニコニコ動画を貼っていたのですが、権利上問題があると考え、こちらのリンクに貼り直しました。

*6:あなたもこれを読みながら、具体的な様式をもって自らを構成している