非シニフィアン的生産のために、契約論ではない社会を描けるか

http://togetter.com/li/168657
http://d.hatena.ne.jp/impuissance/20120115/1326630657
http://d.hatena.ne.jp/impuissance/20120117/1326768354
この3つを同時に読んで考えたことのメモ。

 精神分析において,そもそもダジャレを考えているのはダレか? この答えは,「無意識が考えている」あるいは「一次過程が考えている」となる. (略) フロイトは無意識の一次過程を,欲望の幻覚的満足とともに,圧縮や置き換えといった象徴的な文字操作を含むものとしてみていた.
 一次過程における象徴的な文字操作は絶対に無視してはいけない,シニフィアンの水準をそこに読み込まなければならない (略) 「一次過程は知覚同一性を目指し,二次過程は思考同一性」を目指す.
 無意識の一次過程というのは,いうなれば人間の中で,文字の類似性に従った象徴的操作をつねに行う機械が作動しているようなものである.だからこそラカンは夢や無意識を「野生の解釈(interprétation sauvage)」と呼ぶ.
 それでもやはり〈一次過程はシニフィアンのみには還元されない〉ということ.そもそもフロイトにおいてこの過程は欲望の原初的満足とも特権的に結びついており,(何度も言ってるように)シニフィアンと享楽のハイブリッドとして作動している.  http://togetter.com/li/168657 (@schizoophrenie さん)

 主体性の生産はどこで行われているのだろうか。それが非シニフィアン記号論だとここでは考えよう。シニフィアン記号学が言語中心であるのに対して、シニフィアン記号論が言語ではない様々な表現からなることを考えれば、シニフィアン記号論は、象徴界(言語)に参入する以前の主体の生産に関わっていると仮説を立てることができる。 http://bit.ly/xJFq0I (impuissance さん)



フロイトラカンであれば一次過程の文字操作で終わらせるところで、
グァタリは非シニフィアン的生産の強度を考えており、これが特異化 singularité の話だろう*1
フロイトラカンが駄洒落しか読み取らないところに、グァタリは、主観性を政治的に再編する駆動力を読み取っている*2。 「シニフィアン+欠如」だけで考えていると、既存の解釈枠に頼らない、レイヤーを移動する、リズムと強度に満ちた分析プロセスを論じられない。

 彼[ヒューム]の主要な考えは、社会の本質は、法ではなく制度であるということだ。事実、法は、企てや行動の制限であり、社会に関してはその消極的な面しか考慮にいれないものである。契約説は、私たちに次のような社会を提示するがゆえに誤っている――法を本質とし、前もって存在している或るいくつかの自然権を保証することしか目的とせず、契約にしか起源がない社会をである。(略) 社会的なものの外にあるものこそが、消極的なもの、欠如、必要性なのである。社会的なものの方こそが、根底から創造的、考案的であり、積極的なのである。 http://bit.ly/xKvbOL ドゥルーズ



制度は《差異生成的な反復》を目指し、法契約は《同一性の反復》を目指す。
シニフィアン的生産(レイヤーを移動する、漏洩線としての分析プロセス)をつぶさずにいるために、
同一性を押し付ける《契約》ではなく、差異の生成に場所を与える《制度》に基づいた社会を設計できるだろうか。



編成の《強制力=権力》は?

    • 強度とは、主観性の生産における権力の樹立といえる。
    • 「法ではなく制度」といっても、制度にも強制力はあるし、そうでなければ制度という言葉はふさわしくない。
    • 強度に満ちた誰かのプロセスは、別の誰かにとっての素材でしかない。それは永遠の対話という観点からは積極的なことだが(バフチン)、意思決定の観点からは「何も決められない」に相当する。




signifiant / écriture / 生産過程

東浩紀の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』では、一次過程はシニフィアン signifiant ではなく「エクリチュール écriture」の話になる。つまり、差異の全体性が一挙に与えられるシニフィアンに対し、紛失と誤配に悩まされるエクリチュールが郵便の比喩で語られる。 ここでシニフィアンを《熟議》、エクリチュールを《差異の総和》に置き換えると、『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』の議論になる。
シニフィアン」のラカンにも、「エクリチュール」のデリダにも、《生成過程》の話は全くない。主観性の生産過程の《様式・関係》の話が、ごっそり抜け落ちている。彼らはそこを主題にしない。


ただしラカンの《享楽》概念は、プロセスのモチーフにも見える。
またセミネール第11巻の英訳版序文(こちらで読める)はラカンが書いたものだが、そこで彼はこんなことを言っている*3

 I am not a poet, but a poem. A poem that is being written, even if it looks like a subject.
その仏文: je ne suis pas un poète, mais un poème. Et qui s’écrit, malgré qu’il ait l’air d’être sujet. (『Autres écrits』p.572)

ここでラカンは、彼の主観性が詩の制作過程として生きられていることを語っている。




*1:名詞化すると分からなくなってしまう。 《暗黙知創発》がプロセスとしてしか生きられないように安冨歩、特異性も、特異化のプロセスとして内在的に生きるしかない。分析的理解が内発的に生じてしまうのだ。

*2:制度分析(analyse institutionnelle)と分裂性分析(schizo-analyse)は、ここを前提にしないと話にならないはず。

*3:英訳は1977年、Alan Sheridan 訳。 ラカン逝去の4年前。