「完全主義をやめよう」「ありのままでいい」という暴力

支援界隈であまりにも繰り返される問題点なので、反論させてください。


「完全主義をやめよう」「ありのままでいい」というのは、自己啓発系の定番テーマです。
しかし、東電の社員がそのフレーズを使った場合、どうやって反論するんでしょう。
放射能問題なんて、先延ばしにしよう」「あるがままでいこう」。


「いい加減でいい」という自己肯定は、問題の根幹を放置させてしまいます*1
「完全主義をやめよう」という話は、すでにあきれるほど繰り返され、
そのたびに人気を呼ぶのですが、反復される信仰みたいなものではありませんか。


問題なのは完全主義それ自体ではなく、問題意識を排除する従順さです。
従順さゆえに、意味のない完全主義が続いてしまう。


「このままでいい」というメッセージは、それ自体が強迫観念でしかありません。
またじつは、現状や既得権に居直ることでもあります*2


私の提案は、いくつかのことは《形式的に固定してしまう》、そして変える必要のあることは曖昧にごまかさず、ラディカルに変えてしまう―― その話し合いを定期的に繰り返す――というものです(参照*3


変える必要はないと決めてしまえば、あとは安心できるし、変えるなら、本当に根本から変えてしまえばいい。あいまいに現状を肯定したまま「完全主義をやめよう」というのでは、問題点を指摘することすらできません。それは私には、途方もない抑圧であり、暴力です。





1月8日の【追記】

ここでしているのは、

    • 名詞形の実体を肯定する態度は、《ありのままの分節生成》を禁圧する

という話で、

    • 名詞形の《当事者》や《生命》が擁護されれば、言葉のレベルは抹殺/免責される

というかつてのエントリと、同じモチーフです。


「人間は不完全なもの、だから自分を肯定していい」というイデオロギーは、問題意識を封殺します。「ワタシたちは不完全なままで完全なんだ」というわけです。これでは、単に否定的な完全主義(要するに順応主義)と、漏洩線としての分節生成(現状を本当に変えてしまえる気づき)を、見分けることができません。実体化された《現在》を丸ごと肯定するので、現状のままでは生きていけない人たちは、黙らされます。

「与えられたルール」それ自体が理不尽の温床である場合は、フォーマットそれ自体から書き換えなければ運動が停止します*4。 逆にいうと、時間的・空間的な限定が適切なら、完全主義は有益(場合によっては必須)です*5。 必要なのは、現場的な時間軸をもったアレンジでしょう。


語学のように、与えられたルール内で自分の作業を作らねばならない場合、ルールは大まかに踏まえたうえでのラフな試行錯誤が必要になります。この場合、ラフが許されるフレームは決めてあるし、「ありのまま」ではない。 「言葉は自由だから」と文法や単語を無視すれば語学学習にならないし、かえって「流暢な発話」はできなくなります



2012年1月19日の【追記】

私は、《名詞形=存在》で押しつけられる「ありのままに」に抵抗し、
《動詞形=分析生成》としての「ありのままに」を、最大限に肯定しようとしています。
前者は名詞形《当事者》への崇拝であり、生成してきた分析をつぶしてしまう。
しかし後者は、不定詞としての《当事化》への肯定であり、そのための状況変革をこそ模索しています。
当事化というのは造語ですが、「当事化」と、「者」をつけて名詞化したうえで動詞化しようとすると、すでにおかしくなってしまう。必要なのは「当事者」などという実体にすることではなくて、内在的分析(特異化)が生じることなのです。



*1:社会構造だけでなく、自分の発想の傾向まで含めて。先日はこれを、改編可能な《制度因》と呼びました(参照)。

*2:本当に追い詰められたら「このまま」ではいられません。

*3:「形式的禁止」と「再帰的組み替え」の反復は、たとえば定期的な総選挙みたいなものであり、慢性的に硬直した左翼系イデオロギーとは対立します。

*4:この場合、集団的合意を取り付ける活動が必要です。

*5:不完全さが命取りになるケースは、いくらでもある。そこで《完全さ》を、個人規範だけに頼って要求するところに無理が生じる。間違いが起きないためには、何重にも用意された制度的工夫が必要になる。身体医療では、物質操作の完全さが要求される。しかし精神系の医療では、物質操作ではなく《つくる》というモチーフが必要になる。