「構造因」と、主体化のプロセスの生産様式

発達障碍の件で、精神科医@schizoophrenie さんからレスポンスをいただきました。
そこを触発点にして、自分の研究方針を考えるために*1、いまの理解を整理してみました。


    • 《享楽・現実界・強度》というキーワードがありましたが(参照)、たしかに強度をもたらす方法論をどうするのか――というより、私たちはすでに何を強度として生きているのか*2。 おっしゃる通り、どこに強度の焦点を見るかで、(この3人にかぎらず)方針が分かれるようです。 その焦点に、各論者の当事者性が表れているとも言える。
    • ひきこもる人の主観は、何に固着しているのか――《幻想の横断 traversée du fantasme》は決定的に重要。ただ私は、「分析における構成の仕事」とともに、《自分でつくり直す》というモチーフでしかそれをやれそうにない。それは私なりにいえば*3政治的要因をともなう創造過程を無視しない、ということ。逆にいうと、それは私からの質問にもなります。 《幻想の横断》と「構成の仕事」は、個人化された主観を前提にするのかどうか。
    • ガタリによる、「主観性の生産 production de subjectivité(PDF)」という唯物論的な概念が役に立ったのはこの局面。 問題にするべきは、style modes du processus de subjectivation*4(主体化のプロセスのスタイル様式)。 理論化の方針それ自体が、論者じしんの選んだ主体化のスタイルにあたる。 「ラカンを理解することは、ラカン的主体になることだ」というのは、どの思想家についても言えるし、べつに理論研究をしなくても、「考える」努力は、スタイルの選択を終えた後の姿のはずです*5
    • ガタリは若い頃ラカンに夢中だったそうですが、わざわざラカンと別の語り方をすることに必然性があったかどうか。ガタリの努力は、以下でレクチャーいただいた構造因の剔抉とは、べつの作業だったと思います。同じ論究で答えが違うというより、ミッションの設定を変えた*6。 とはいっても、精神分析の方法論を通過せずに彼の議論が出てくることはなかったはずだし*7ラカンが「シニフィアン(と享楽)」という概念で引き受けた問いは、ガタリ記号論で引き受け直されたと言えるのかどうか。構造因の話は、単に放棄してよいようなものなのか。まだわからない*8
    • 実は誰もが体験している、事後的で強度に満ちた内在的分析の生成。能動的というより、いつの間にか起こってしまう「そうだったのか!」*9。 既存の解釈枠に落とし込まないのでそれはすでに「精神分析」とは言えないと思いますが、しかし分析生成が事後的であるという点で、精神分析の文化圏でしか生まれなかった方法だと思える。認知行動療法などの順応主義と別であるのはもちろんですが、順応主義的ではない理由は、反資本主義や反精神医学の分かりやすいイデオロギーではなく*10、事後的に生じる創発的分析の尊重にあるのだと思っています。事後的に「生じてしまうモノ」の時間は*11、時計時間(クロノス)の外ではあるが、現場の時間軸と別ではない。メタ言説が現場の時間を無視して自分だけの閉じた時間を生きようとするのとは、時間軸の生き方が違っている*12
    • ガタリに限らず、そもそも20世紀フランスの思想は、ラカンの「分析主体」でも、フーコーの「再問題化」や監獄に関する活動*13でもそうですが、《本人が自分で語る》ということに、方法上の起爆剤を置いているとは言えないでしょうか。日本ではそれが上野千鶴子流の名詞形「当事者」論で終わっていて、それ自体が生産様式を固定しています(概念枠に主観性の編成プロセスが支配されてしまう)。 私は、主観性それ自体の生産様式に関して、提案をし直したい。それは社会思想、精神病理学などに、同時に取り組まざるを得ない。といっても、イイトコ取りではなくて*14、それぞれの行き詰まりに同時に取り組むことになる。



    • 「謎の外因性 crypto-exogène」はなるほど、というか魅力的な表現です。 crypto には「隠れた」「秘密の」「暗号」などの意味がありますね。 cf. 斎藤環氏による解説の文字起こし:精神医学:「原因論の三分類」





発達障碍は、ウイルスで起こるトラブルではなく、主観性の編成過程それ自体の問題なので、「その感染症はなぜ流行したのか?」とはちがう議論にする必要があります。感染症では、流行の顛末については社会的・人文的要因があり得るかもしれませんが、身体的発症の機序そのものは物質のメカニズムを説明すれば終わりでしょう。
私が状況をどう見ているかを整理すると、次のようになります。


発達障碍をめぐって、以下のどちらに力点を置くか。あるいは、どちらかをもういっぽうの原因に置くのか。

    • (1)器質的な形成異常について、集団的な変遷がある。(あるいはもともとあったのが発見された)
    • (2)主観性の生産様式の歴史的変化が、社会的・政治的・人文的に生じている。 つまり実態理解には、「文系的」モチーフが必要。

(2)の立場は、さらに二つに分かれます。

      • (2-a)歴史的変遷には、操作可能な因子がない。原理的に人智の及ばざる変化であり、私たちには対処療法しかやりようがない。
      • (2-b)作家が文体を変えるように、自分たちで主観性の生産様式は変えられる。少なくとも、根幹をなす原理的なメカニズムに介入できる。 ⇒私はここを中心に考えたい。



ラカンの構造因が「偶発因」「作用因」「特異因」の3つをふくむ、というお話はとても勉強になりました。しかし、これはスタティックな因果を複数的に並べただけなので、《患者さんの主観性それ自体を生産過程と見たうえで、その生産様式にとりくむべきだ》というモチーフは、ないのではないでしょうか。

逆に(2-b)、つまり生産様式への注目に対しては、「それは神経症圏の議論で、精神病圏(構造因で語られる)には意味がない」という反論が想定できます。

ここについてこそ、ラカン派と、ウリ/ガタリの立場の違いを整理すべきなんだと思います。
ラカン派が精神病の治癒については「妄想形成と補填しかない」と言っているところで、ウリとガタリは何を言うのか。


神経症圏と精神病圏の双方について、《固着》に照準する私は、「統合失調症者が耐えうるように、人を含む環境に取り組む」という三脇康生氏の説明(私の理解する大意)を参照しつつ、主体化の集団的なスタイルについて考えています。

 ガタリが概念規定した分裂性分析は、慢性状態にある患者のいる病棟や、安定期にはいった患者の社会復帰のプロセスのなかでこそ、支援者側がなすべきものである。(三脇氏、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.209)

    • なぜそんな事をする必要があるかといえば、次の表現が参考になります。

 モード・マノーニは「主体が制度(institution)から逃れることを援助されないのなら、主体は制度の中で慢性化し、主体は閉鎖されることで安全を得る世界から脱出しようと思わなくなる*15のだとウリに言っている。(『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.141、強調はブログ主)

マノーニの原文を見ていませんが、病院に精神分析を持ちこむことに反対したマノーニの《制度》概念は、患者さん本人の主観性のことまでは含みようがないと思います。しかしこの引用を、本人の主体化の生産様式についてまで考えるとしたらどうなるか。それは@schizoophrenie さんの挙げてくださった構造因とも別の問題意識になるはず。


あるパターン(制度)を慢性化させることでようやく安全が得られるとなれば、そこから出なくなってしまう――これがそのまま、発達障碍に言えるのではないか。つまり主体化のプロセスが、「文系的な」理由によって固着しているために*16、主体化や社会化の作業そのものに委縮や硬直が生じている。それを「(謎の)外因性」と見誤っているのではないか。――これが私の疑念の中心です。そして、主観性の生産様式の問題なのであれば、ご本人を含む集団的な努力で、原理的な改善があり得るのではないか。


以上の問題意識を、改編可能なものとしての「制度因」という言い方で論じることができるかもしれません。ただし制度因というと、ふつうは「脱施設」だけを想定されると思うので(反精神医学系の定番ですね)、主体化の生産様式こそが問題になっていることを強調しなければなりませんが。


いわば、《作品をつくるスタイルを変えてもらう》ような仕事を考えているわけです*17。 主体化のプロセスがいつの間にか一定の枠に押し込められ、理論的考察までが無自覚に方針を決められがちな現状は、構造因を扱うことはあっても、制度因を放置している。
精神分析的な解釈枠を前提にすることは、理論家と患者さんの主体化の様式を放置することになります。その放置を、《自由》と呼んでいいものかどうか。それはむしろ、努力の条件を固着させると思います。

逆に、《主体化の生産様式》を論じることの難しさ

私は、内在的理解の事後的生成を尊重する場所や関係性のスタイルが、臨床的に意味をもつと考えている。
⇒ 「説得する」こと、集団的意思決定のフォーマットを変えること、「つながりの作法」を変えることが必要。
⇒ 意思決定について、さまざまなメカニズムへのハッキングが必要になる。この点は、ラボルド病院や参加させていただいた『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』への疑問として、いまだ解決しないままです(参照)。
「閉鎖領域での治験」や数値化が難しいなかで、成果を作っていく必要があります。





2012年1月23日の【追記】

実はこのエントリを書きながら、「これを理解できる人は、いないのではないか」と感じていたので、
「明確に記されている」と言っていただいて、大きな励みになりました。

このエントリで論じた観点からいえば、今の引きこもり関係者には、主観性を硬直させるメカニズムを悪化させる事業にひたすら邁進している人があまりに多い。
一度はまり込んだ自分のパターン*18は、そうそう抜けられないし、そもそも「何が論点なのか」さえ、気づいてはもらえない状態にあります。しかし、ここで戦うしかない。



*1:ムリだと思うことは諦め、間違いは今の時点で修正するためにも

*2:強度の展開によってしか転移を起こせないと考えれば、《強度の生き方》は、転移の起こし方でもある。強度には恣意的に動かせない必然性がある。資質の違う人が同じスタイルで転移を起こすことはできない。

*3:あるいは、ガタリに見出したものとの関連でいえば

*4:これは私が整理した表現で、ガタリの文章にこのままの形では見つけられていません。この件も含め、ガタリ云々については文献研究として、きちんと提示すべきですね・・・。 「ガタリは(あるいは研究者は)ここまでは提示していたが、ここから先は出せていなかった」という腑分けが、この私のエントリではやり切れていません。 【2012年1月18日追記】: マルクスの用語「生産様式 Produktionsweise」がフランス語で「mode de production」であること、またガタリ自身の表現として、「autres modes de production ontologique」(『Chaosmose』p.111)、「nouvelles modalités de subjectivation」(『Les Trois Ecologies』pp.62-63)などがあることから、style をやめて mode にしておきました。

*5:つまり私は、「考える」という行為そのものを、一定の様式をもった生産過程と見ています。

*6:たとえばジジェクドゥルーズガタリについて、「狂気を疑似精神医学的に称賛することに危険なまでに近づいている」「狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っている」と批判しているのですが(参照)、これは理論上のミッションが自分と同じであることを前提にしたうえで批判しているのだと思います。ガタリ本人は「分裂症自体が歓ばしいものだということではない」と言っていて(参照)、病気それ自体の肯定が主眼ではないことは明らかです。むしろガタリは、理論家や臨床家のミッションの設定のしかたを問題にしている。

*7:ガタリは晩年まで精神分析の実践を引き受けていた」という証言すらあるのですが、それがどういうことなのか、詳細は不明。 cf.『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.115

*8:このあたりの事情を、「ラカンは治療主義だったが、ガタリは違った」とか、そのたぐいのイデオロギーに落とし込まないできちんと腑分けした仕事は、まだないと思います。

*9:「C'était donc ça!」は、幻想の横断でも語られる言葉だと思います。

*10:イデオロギーでしかないなら読む価値がありません。

*11:私は、そこで生じた分節過程それ自体を、動物でも人間でもないモノとして物質化されたものと考えています。

*12:メタ言説には、メタ言説の生きてしまう欲望があります。メタ言説しかやれない人は、そこに嗜癖を生きている。

*13:「監獄情報グループ(Groupe d'information sur les prisons, GIP)」

*14:cf.「ガタリの思想は、いろんな現場からいいところどりをしながら生成変化していったということでしょうね」(『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.181)。 これでは、論じているおのれの生産過程を自分の問題として分析することができません。 「いいところどり」は、むしろ最悪の道行きとすら言えると思います。

*15:Maud Mannoni, Le symptôme et le savoir, Seuil, 1983, p.65

*16:二次的に器質的変化はあり得るとしても

*17:批評的介入だけでなく、集団的な環境整備によって。ラボルド病院でやっているのは、少なくとも病院内の役割や目の前の作業として、《主観性の生産過程が固着しないようにする》、ひたすらそのことではないかと理解しています。

*18:支援者・研究者・取材者らにとっては、勝ちパターンでもある