【承前】
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/11/22
- メディア: 新書
- 購入: 14人 クリック: 581回
- この商品を含むブログ (164件) を見る
-
- 著者がこの本を、ルソーからの「二次創作」(p.250)と言ったことで、ここには彼の当事者性が表明されている。歴史上の思想家を、いかにも正当性があるかのごとく「客観的に解釈」して私物化するのではなく、「誰に何を言われようが、俺はこうやるほかない」と、あけすけに提案した。ご本人の思惑はともかく、これはいわば、分析「される側」のいさぎよさと言える。彼は自分の固執を、素材として出している。
-
- 本当にヤバい事情は、すべて水面下にある*1。 これを表沙汰に分析できる状況を作るだけで、私たちの社会生活の制作スタイルは、変わる。逆にいうと、総記録社会を前提にしなければ、本ブログで論じてきた《素材化》うんぬんといった話は、絵に描いたモチで終わる。
-
-
-
- 【参照:「《社会性》の制作過程」】
-
-
「総記録社会」ゆえに可能なこと
フェリックス・グァタリ 「精神分析と政治」(『政治と精神分析 (叢書・ウニベルシタス)』pp.14-5)より:
先ほど、ひとりの仲間が、マルクス主義とフロイト主義の関係についての一連の研究が結局のところきわめて教条的な側面を持っていると指摘したが、私も同感である。この袋小路からぬけだすには、闘争の現実、しかも実際におこなわれている闘争の現実について、あらいざらいぶちまけることから出発するしかないだろうと私は思う。 (略)
彼は自分の労働単位のなかで、あるいは彼の家族的取り巻きのなかで、どんな政治をおこなっているのか? 社会的闘争の次元と同じように欲望の次元においても現実の政治的諸問題を明らかにすることができるのだろうか? 私生活と公的生活の区別を維持しているかぎり、袋小路からぬけだすことはできないということなのだ! (略)
欲望の政治と革命的政治との関係を真剣に語り始めるやり方は、多分こうした枠組みとは別の枠組みでも想定しうるであろうが、ともあれそのためには《問題をつつみ隠さずもちだして》、《無遠慮をかえりみない》作風が必要とされるだろう!
こちらの写真をみると、この訳文のもとになった文章は、1973年に書かれている。
インターネットが使われる以前の当時、この呼びかけは、単に《人間的なもの》でしかなかった。
これからは、「あらいざらいぶちまける」のは、ライフログがやってくれる。
私たちの社会生活は、いわば、言い訳のきかない《社会的な自由連想》のように営まれている。メタはないのだから、私たちの生活が自由連想的であることをやめることはできない。
*1:「それを論じることでしか元気になれない話」は、すべてオフレコになってしまう。