【承前】
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/11/22
- メディア: 新書
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情報技術に期待したい最大の点は、それが本書にいう《総記録社会》を可能にすることだ。
わたしたちはいまや、ある人間がいつどこでなにを欲し、なにを行ったのか、本人が記憶を失っても環境のほうが記録している、そのような時代に生き始めている。実際、現代社会はすでに、本人の記憶ではなく、記録のほうをこそ頼りに、ひとが評価され、雇用され、ときには裁かれる事例に満ち始めていないだろうか。(同書pp.86-87)
「熟議ではなく市場を」という本書の主張からすると、
ここでとられた記録は、マーケットとの関係を調整するためにしか使われない。
しかし中間集団の困難に照準する私は、身近な関係の事後的検証*1のためにこそ、アーカイブを必要とする。ライフログは、《実はどんなことが起こっていたのか》を検証するためにこそ呼び出される*2。 無意識は、制御されない市場の欲望ではない。何が起こっていたのかを検証する分析過程こそが、無意識の生産に満ちている。
つまり無意識とは、単に制御されるべき衝動のことではなく(本書)、起こったことについての分析の生成プロセスを意味する。無意識とは、生産し生産されつつある、内発的な生成過程のことだ。
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- 【エントリ翌日の追記】: 分析の生成過程を
言祝 ぐことは、本人の主観を生きる上では大きなヒントになっても、集団としては混乱をもたらす。つまり、各人が自分の制作を主権化してしまえば、そんなものがバラバラに生じた場で意思決定はどうするのか? 「議論すればよい」としか言えないなら、絶望的熟議に逆戻りだ。恣意的支配も防げそうにない。ここではひとまず、前提となる生産様式の提言を行なっただけだ。
- 【エントリ翌日の追記】: 分析の生成過程を
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- 【2011-12-13追記】: 生じてしまった分析の声は、弱い。それを踏みにじるから弱いというより、声そのものが《弱い》。救済は、生じてしまった声のために、環境を整えることにある。(私にとっては、それが無意識の救済になる。)
たとえば、ネットの検索だけを頼りに、政治家や芸能人の発言の齟齬を発見し揚げ足取りに夢中になっているネットユーザーを思い起こせばいい。(同書p.87)
揚げ足取りをしている側じしんが、生活のすべてのログを採られており、
自分じしんがいつでも集団的検証に晒され得るとなれば、事態は変わってこないだろうか。
「チェックする側」が匿名の安全圏にいられる状況は、中央政府による検閲とあまり変わらない。
【つづく】