むしろ、「中間集団2.0」が要る

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル



既存の政治に絶望し、人間関係に苦しさを抱える私にとって(参照)、
この本の提案は、一度は存在してもらわないと困るものです。


ひきこもり周辺のかたは、「どんな議論か」ぐらいは知っておく必要があると思います。

 彼〔ルソー〕はいわば、ひきこもりの作る公共性に賭けた思想家だったのである。(同書p.170)

    • あちこちで「わかりやすい」と言われていますし、たしかに専門書に比べると読みやすいですが*1、それなりの忍耐は必要です。ひとことで言うと、《政策審議に『ニコニコ生放送』を導入する》という提案を、冗談ではなく本気で論じた本です。


いま感じている疑問

東浩紀氏にとって《無意識》は、情報断片のことです*2。 この発想は、『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』で「エクリチュール」を論じたときから、一貫していると思います。

社会生活に困難を抱える私は、無意識の問題系として、主観性と関係性の《制作過程》そのものを主題にせざるを得ないのですが*3、そういうモチーフは、東氏の議論には決して登場しません。


これにかぎらず、最善の処方箋という意味での一般意志2.0 は、
「(この問題について)いちばん売れる商品はこれだ」に置き換えられます。

 50年後、100年後の世界においては、ひとを動物的な生から人間的な生へと連れ出してくれるのは、国家ではなく市場になることだろう。(同書p.250)

モノの秩序としての市場動向を考えればよいので、「人間的なしがらみ」からは解放される、と。*4


しかしではそもそも、《消費》という主体化のあり方に支配されることで起こる苦しみは、どうすればいいのか*5。 本書を読むかぎり、消費とは別の回路は、「私的な趣味」として取り組むしかなさそうです。そこに生じる党派性は、放置されてしまう。


いくら市場化が進んでも、中間集団のなかは旧態依然であり得ます。
逆に中間集団さえ新しい体質にできれば、全体性は市場化と別の回路でやれるかもしれない。


東氏の提言は、1万人とかの規模について為されているので、学校や病院・介護施設のような、人が人に接しつつ進めざるを得ない環境の改善には、(少なくともこのままでは)活かせません*6。 同じ理由で、親密圏も調整できない――というか、東氏の議論では身近な関係は「自分でやれ」という話にしかならず、中間集団それ自体の制作技法については、主題にすらなりません。

 未来社会に生きる〕彼の生活は全面的に国家に依存している。悪く言えば「動物」として飼われている。(同書p.246)

今の時点でこれを実現するには、『安心ひきこもりライフ』の勝山実氏の提案――障碍者役割をゲットすること――が、最善に思えます。これから数十年間の日本は、人類史上未曾有の高齢化社会に向かいますが、「誰が中間集団を免除されるか」というのは、就職競争とは逆のイス取りゲームになりそうです。


未来社会を待てない私は*7、中間集団の試みを続けざるを得ないのですが、話し合いには絶望しています*8。 そして集団の洗練については、市場にも期待できない*9。 要するにつながりの作法》については、熟議にも市場にも外部性は現れないのです*10


それゆえ、どんなに家畜的な社会環境を充実させても残ってしまう「腐った人間的要素」を問題にし直す外部性を、市場とは別にあつらえる必要を感じます(市場は、それ自体が「人間的に」硬直している)。 どうしてもなくならない党派性そのものに、非人間的な外部性を担保するアーキテクチャや技法を実装しなければならない。
これについては、まったく手つかずに残ったままで、私じしんの課題です。


つづく


*1:アカデミック・ディシプリンの党派性だけに基づくこの本への排撃は、むしろこの本の必要性(説得力)を増してしまうように思います。 既存ディシプリンに基づく熟議は、けっきょく閉域しかつくらない。

*2:形成・消滅・配達・遭遇などが、確率に左右される。痕跡の多くは、デッド・ストックに滞留してしまう。

*3:ジャン・ウリやフェリックス・グァタリから学びたいのは、こうした問題の周辺です。 参照:「ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論」、「主観と集団」など。

*4:閉じた領域ををひらくために《市場》以外を認めない(そこにしか期待しない)という東浩紀氏の立場は、ひきこもりを専門とする精神科医斎藤環氏と一致しています(参照)。

*5:《支配》と書きましたが、より正確には、「消費という主体化のあり方しか知らず、それ以外のあり方を許されないことによって」。 私たちは、主体化のあり方についても、つながりのあり方についても、ごくわずかなモデルしか知りません。そこでもう少し工夫できないものかどうか。

*6:この本では扱われていませんが、たとえば学校や病院からも「人間的要素」をなくしてはどうかという方針には、魅力を感じます。これは、すでにトラブルの種になっている「モノ扱い」とは、別の回路のはず。というか、お互いをよりフェアに扱うためにこそ必要な《モノ》の導入がないかどうか。

*7:100年どころか、数千年のスパンで考える必要を感じます。――いや、 私の挙げた数字にも根拠はありませんが、中間集団への努力が必要なくなるには、何かよっぽど極端な SF 的変化が必要に思います。

*8:いくら時間をかけても、「熟議してるぞ!」というアリバイに酔ってるだけで、参加者は基本的に、最初から持っていた思い込み(党派性)のフレームを反復するだけです。説得がうまく行ったときには、最初からそれなりの傾向を共有していたか、あるいはベタな「説得」とは別の回路が影響したか、何かそういうことではないかと思います。

*9:リバタリアン的なあり方は、やはり中間集団の作法を放置したままでしょう。たまたまうまく行った者が、「勝てば官軍」でのさばるだけです。

*10:「他者」「歓待」をキーワードにする共同体は、名詞化された他者を絶対的に肯定するというかたちで、関係作法が固まっています。これは、歓待というかたちでの本物の差別であり、宗教的な閉域を作ります。