難しさの焦点が、なかったことにされている

支援団体や自助グループ、ひいては就労へのアクセスが難しい理由として、次の2つがある。

    • しがらみ(党派性)に巻き込まれる
    • ストーカー

説明の切り口はほかにも作れるが*1、「人とのつながりに入ることの恐怖」として、この2つが――話題としてすら――抑圧されているのが、本当に異様だ*2。 なぜそうなるか?

    • それを扱おうとした論者じしんが問われる
    • 名詞形の「ひきこもり当事者」じしんを問い直さざるを得なくなる

自分の支援事業に疑いを挟まず、「支援される人」を美しく描こうとする業界の隠蔽体質が、露骨に表れている*3


人とのかかわりを再検討しているのだから、かかわろうとする人は全員が、自分の来し方ゆく末(実状)を問い直して当たり前だ。


《名詞形の “当事者” をやめて、動詞的に 当事者-化 しましょう》 というのは*4
動詞形で生きられる つながり*5に、協働で取り組みましょう、というほどの意味だ。



追記

古い関係スタイルでうまくやれていた人は、ここでいう《当事者化》をする必要がない――というより、それによってかえってしんどい思いをするかもしれない(要するに、関係性の既得権益層)。
だから、旧来スタイルの共同体を当たり前のように押し付ける人や、名詞形の当事者枠に居直ろうとする人は、その場の関係性を再帰的に問い直されることを嫌がる。

ここで私が提案しているのは、関係スタイルを再帰的に問い直すことを関係スタイルとする、という、やや自己矛盾的な方針だ。



*1:たとえば、人の集まる場所に「いじめ」が起こる問題は、話題にできるようになってきたが、これも硬直した規範を掲げるだけでは、うまく問題化できない。

*2:トラブルは現に、こうした事情で起こっているのに。

*3:どういう関係性や業界でも、隠蔽はある。問題は、それがどう成り立っているか。何かが処理される時に、どういうロジックが反復されているか。

*4:名詞形の「当事者」は、動詞的にあれこれ頑張るうえで《手続きとして》必要になる局面が出てくる。動詞的運動の部分として、一時的に生じるもの。

*5:「存在」も「つながり」も、動詞形だ。 名詞形で語るところに、何か変なことが始まっている。