お誘い

明日(14時〜17時)のイベント、まだ空席があるそうです。
当日の飛び入りも可能かもしれませんので、ぜひお問い合わせください。

  • info★taiyoh.org (コモンズ大学事務局) ← ★を半角の@に替えるとメールアドレスになります。



私からは、

    • ひきこもりをめぐる状況、とりわけ診断学的なあいまいさ(参照
    • 名詞形《当事者》概念の理不尽さ*1  臨床上の意義をもつ、あたらしい発想法

などを説明しつつ、問題点は何か、どんな選択肢があるかを、具体的に描き出すつもり。
ニュースタート事務局関西」代表の高橋淳敏さんには、今後の展望を伺いたいです。


震災以後の官民連携のまずさは、ニート・ひきこもり支援が失敗したいきさつと、事情が重なると感じています。 長期的視点から言っても、活動が依拠する大前提を変えなければ。



やや、事情に詳しい方へ

ニュースタート関西」さんは、私が初めて引きこもりの「親の会」なるものに参加した団体で*2、それ以後しばらく関係が悪化し(2001年初頭〜)、数年前から交流を再開した、といういきさつがあります。私としてはそのあたりも、話したいモチーフに関連します。 というのも、《身近な関係性》は、支援の実態としてはつねに悩みのタネなのに、大きすぎる政治・社会論からは、つねに無視されるからです(というか、要するに話しにくい)。

「社会参加」というのは、じつは身近な接点が反復されるということです。いや、生き延びていれば、家の中にいたって、すでに「参加」しています。問題は、その関係がうまく行かない(行っていない)こと。 新しい関係を築くこともできないし、どうやら総合的にいって、持続可能ではないらしい。

医師たちは、「仲間を作りましょう」と、当たり前の目標をリピートするだけだし*3、マスコミや学者は、大味の社会論や若者論に夢中で、自分が具体的に生きている関係を主題にしません*4――要するに、《身近な関係に起こっている困難》が、なかったことにされています。そこできちんと取り組めば、大きな社会問題にも、別の回路が見えてくるかもしれないのに。

本当はそこに、それぞれの意識のあり方が加担していて・・・・といった話がしたいのですが、ひとまずは問いのたて方を、各人の足元に戻したい。データや背景知識を解説しつつ、そういうお話を提示したいと思っています。

    • 「問題に取り組もうとしている人たち」が、問題の一部分である。(悩んでいる本人もふくめて)


*1:「○○当事者だから許される」といった発想は、非常に大きな政治状況と、身近な関係を支配します。

*2:2000年初夏でした

*3:目標が量的に設定されただけで、関係性それ自体を質的に検討することができていません。 「うまくいった」と自称する人たちの自慢話もこの類いです。

*4:ひきこもり状態を抱えるご本人も、話そうとすると自分の主観的こだわりや、大きすぎる社会論ばかり。主観的委縮と身近な関係性が、それ自体として課題になることがありません。 「考えるときのパターン」が、すでに奇妙に順応的なのです。