集団的に生きられる主観性と、主体化の失敗

以下のセミナーを聴講。



いまの問題意識を、率直にメモしておきたい。



まずナドー氏は、基幹となる問いを 《誰が話すのか(Qui parle?)》 とし、
ホメロスは本当に実在したのか」をめぐる3つの立場を解説する。
(1) ホメロスという1人の詩人が、多くの詩人を止揚した。 プラトン-カント-ハイデガーと繋がる、超越論的哲学に代表される立場
(2) 砂の中から砂金を発見するように、不純物としての他の詩人を取り除き、ホメロスという1人の天才を発見すべき。 「1つの主体=1つの実体」という、アリストテレス的な立場
(3) 詩を書いた沢山の人がいて、そのうちの誰かはホメロスという名だったろう。しかし、詩を集めてホメロスと名付けた人は、ホメロスという名ではなかった。 ニーチェの立場


これらは《主体》についての3つの立場であり、ナドー氏は(3)を選ぶ。*2


2時間ほどの講演を思い切って縮約すると、次のような話になる。

 主観性にとって最大の敵は、理論。 主観性についての理論は、「行なわれる」しかない。
 人と会い、本を書く/読むことで、個人は脱個人化される*3。 その出会いの瞬間(永劫回帰・アイオーン的時間)ごとに、複数的な主観性が体験される(断片的主観性)*4
 お互いのお互いに対する消え去り(脱コード化)の体系が《資本》と呼ばれる。超越論的なものがあればこういうメカニズムと闘えるが、そんなものはないので、「資本主義と闘う」ことはできない。それが『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』のテーゼ。



個人化された主観性や、イデア的実体を批判しているのは分かるが、
資本主義としての脱コード化と、そうではない(積極的な運動としての)脱コード化の違いがよく分からない。
あるいは端的に言って、
ここでナドー氏が言っていることは、党派的集団性のはらむ「なし崩しの暴力」と、何も矛盾しない。


たとえば私が強く懸念するのは、アカデミズムには独特の傾向性がすでにあり、それになじむ論考であれば査読に通るが、本当に必要な議論は落とされてしまうのではないか、といったこと。 《出会いの瞬間》の複数性を審美的に肯定するだけでは、恣意性やバイアスをうまく論じられない*5
あるいはナドー氏は、ガタリの草稿を発掘したことで有名になったそうだが(参照)、ガタリという名前について、今回展開されたようなスタンスを採るとどうなるか。ガタリ本人の真意を読みとるより、自分が属す共同体に合わせてテキトーな読みをやり、「集団性に流されればよい」にならないか。そこでは、党派的目論見は読む前から決まっており、それに合わせた見解しか「ガタリ」から取り出されない*6


そこで「ガタリの真意」にこだわる作業は、上の(2)にあたるとして嘲笑されるだろう。にもかかわらず、なぜか「ガタリ」の名はアイドルとして存続する。いっぽう本当に厳密な研究をやってしまえば、「なんだか有名だけど、実はあんまり大したことは言ってなかったね」があり得る。


つまり、ニーチェの立場を解説しながら示されたような集団的主体性は、個人崇拝的なドグマ主義と矛盾しない*7。 むしろ、ある著者の見解を特定する厳密さこそが、批判的検証に開かれ、過剰なアイドル化を回避し得る*8

ニーチェガタリなどの)有名知識人をアイドルにして、けっきょくは自分たちの党派性を押しつけてるだけ」というどうしようもない状況に、ナドー氏の議論は抵抗できていない(むしろそうした状況の理論的肯定のような話になっている)*9


何よりも、「脱コード化」の中身を論じる必要がある。
私が必要とする脱コード化は、単なる個人性の溶融ではなくて、《当事者化》という労働過程のことだ。つまり、「脱コード化の掛け声で党派を作る」のではなく、おのれの生きる党派性の実態こそが、脱コード化されねばならない。



主体化の難しさ

講演後の impuissance 氏の質問から、大意次のようなやり取りがあった。【cf.ご本人のエントリ:「断片的主観性」】

    • 主体化は、資本主義の中だけじゃない。 言語(の力)という水準で、主体化の話を考えられないだろうか。(impuissance 氏)
    • いや、「太古の昔から、資本主義の外なんてない」というのがドゥルーズ=ガタリだから、その質問はくだらない。(檜垣立哉氏)
    • 「資本主義」という括りだけで主体を論じるのは、話が大きすぎる。もっと小さなグループでは、言語における文体や力の場が変わってくる。(impuissance 氏)*10

それを受ける形で、私から次のような質問をした(大意)。

 一週間前に、フランスから来られた日仏ひきこもり比較研究のチームとお会いしました。ひきこもるというのは、いわば「資本主義の中でうまく主体化できない」ということですが、ナドーさんはどうお考えでしょうか。臨床家でもいらっしゃるとのことなので。

impuissance 氏の質問を活かして言うなら、細かいグループごとにも「主体化の失敗」は起こる。ひきこもってしまう人は、集団や関係性の中での主体化に失敗している。



ナドー氏のお返事は、大まかに次のようなことだった。

    • 「能力がない」という話にしてしまうと、そのない能力を「与えねばならない」という話になるから、まずい。
    • ひきこもる人には、ひきこもらない人にない能力がある。
    • 主体になるのに「良いやり方と悪いやり方がある」と言ってしまうと、特異的な新しいやり方を阻害する。

残念だが、これではドゥルーズ/ガタリを知る左翼系論者が、誰でも口にするような話でしかない。ひきこもりに関しては、単に現状を肯定すれば良いのではなく、また単に「引き出せば」よいのでもなく、主観性や関係性を検討し直す作業(脱コード化としての当事者化)が必要なのだ*11。 これは、支援者や自助グループ、そして労働環境との関係においても必須。


主体化の難しさを内側から考える上で、《主観性の生産過程のスタイル》と、《集団的な合意(党派性)のスタイル》とは、切り離すことができない*12。 これは絶対に逃れられない(どうあがいても回帰してくる)問題構造だが、ナドー氏の議論では、その詳細が扱えない*13党派的要求とすり替えられた《社会性》は、またそこに居直った主観性のスタイルは、どう再帰的にチェックできるだろうか。

    • 主体化や集団のアレンジについては、その失敗を内側からさぐる形で考える必要がある。単なる「全面肯定」は問題の先送りでしかないし、抽象的命題を振りかざすだけでは、自分の当事者性を棚に上げた議論がいくらでも増殖する。それは、PC 的イデオロギーで細部を抑圧し、おのれの主観性のルーチンを反復しているにすぎない。
    • 現代世界での主体化の問題を考えるとき、《ひきこもり》ほどうってつけのテーマはない。病気ではないはずなのに、主体化ができないのだ。うまく行った人による自慢話や、その逆の単なる「全面肯定」は、苦痛事情の放置でしかない。――自慢話や全面肯定も、「そういう仕方での社会性」を生きている。私はここで、別のしかたでの主体化と社会性を提案している。
    • メタ言説や党派的抱き込みで主体化の落とし所を作ってしまった人たちは、《主体化や社会化の問題》を内側から検討するのは難しいのかもしれない。




生成ではなく、アリバイとして持ち出される《特異性(singularité)》

あらためて感じたのだが、
《特異性》*14というドゥルーズ/ガタリの用語は、あまりに恣意的に使われすぎる。

    • 「特異性を尊重すべき」という PC 的イデオロギーは、誰にも反論できない100%の正義(ディテールを無視する暴力)になるし、
    • 個人は、《特異性の尊重》という大義の下僕になる。その大義を口にするかぎりはアリバイがあるが、「アリバイによる自己確保」は、お役所的な義務の遂行とかわらない。

要するに、どんな下らない言説でも《特異性》を標榜すれば、肯定できてしまう。
そんなものがのさばれば、分析的な差異の生成(本物の特異性)は、抑圧されてしまう。


苦痛のメカニズムは主観性の生産過程に内在しているかもしれないのに、それを単に「特異化のプロセス」などと肯定しても、どうにもならない(努力のヒントにならない)。 関係性や主観性の実際のプロセスを分析し、その分節過程をこそ新しい主体化のプロセスとして生き直さねばならないのに、それが PC 的主体化陣営に踏みにじられてしまうのだ*15


実際に特異的な分析(逃走線)*16を生きるべき局面で、「特異性を尊重すべきだ」というイデオロギーがのさばっている。これはありていに言って、「特異性を推奨するドゥルーズ=ガタリ」の公理化だ。

党派的大義の陰に、主観性や関係性の悲惨な実態が放置されている。――ここに、生や主観性の政治的再編を担う《哲学》と、苦痛緩和に従事する《臨床》の、不当な乖離がある。



哲学と臨床

ナドー氏は私への返答で、「臨床家としてではなく、哲学者として答える」と繰り返しエクスキューズをなさったのだが、終了後の飲み会では、次のような発言をされたらしい(参照)。

 「断片的主観性」の概念は、医療実践において意味がある概念ではないのだそうだ(彼の中では哲学と臨床は響き合ってはいるが、基本的には別々の事柄とのこと)。

私は、哲学と臨床を切り分けられると見なす議論そのものが、臨床的に最悪の環境要因と考えているし*17、その部分でこそ「主観性の生産プロセス」に取り組みたいので、これは残念としか言いようがない*18


またナドー氏によれば()、

 制度論的精神療法とスキゾ分析は全く別のものなので、切り離して考えたほうが良い

とのことだが、そもそもガタリ本人が、「切り離しては考えられない」と明言している(参照)。



「fragment(s) subjectif(s)」 ⇒ 複数の当事者化 ?

私の議論は、なんらかの大義*19を口実に、自分の責任をなかったことにするあらゆる言動に向けられている。 これは日本語の文脈では、《当事者》概念に新しい文脈を作り出すことだ。


私たちは、社会参加がうまく行かない状況をめぐって、その社会参加そのものが担わされる先入観や大前提に、悩まされ続ける。 ここで《特異性(singularité)》は、怒りとして生成する。何もない真空状態で恣意的に「特異化する」のではない。怒りは、内在的分析の必然性だ*20


そしてこれは、万能感の道ではない。
意識はそれ自体が、自分の当事者性を棚上げする防衛機制として生きられる。
それゆえ、もとの傾向性を破った当事者的=再帰な分析は、周囲の支持を得にくい。またそのつどの分析は、何を根拠におのれの正しさを主張できるだろう。 けっきょくそれは、《主観的な断片 fragment(s) subjectif(s)》 という扱いしか受けられないかもしれない。

    • 根拠づけの「底が抜けている」なら、意思決定は最終的に、(集団的な)賭けでしかない。
    • 党派性への居直りが、避けがたい日常性であるとしたらどうだろう。 多くの人が惰性とごまかしを望むなら、決然たる分析は、粛清や黙殺の対象になる。だとしたら、その傾向性まで織り込んだ制度設計が要る。

こうして私は、
主観性や関係性の新しい方法論としての《脱コード化=当事者化》から、意思決定のモチーフに向かわざるを得ない*21

硬直した主観性と、知識人がなかなか扱おうとしない至近距離の関係性は、複数性や脱個人化を口にしたところで、何も改善しない。それどころか、そうした大義を口実に、どんどん悪化するのだ。



*1:ナドー氏は、『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』著者(参照)。 氏の博士論文は、こちらのページ(最下部)で全文をダウンロードできる。 書籍:『Fragment(s) Subjectif(s)

*2:ナドー氏にとってのニーチェは、ニーチェにとってのホメロスにあたるという。

*3:「本の書き手は本の中に、本は読者の中に消え去る」

*4:通訳をした村澤真保呂氏によると、原タイトルである「Fragment(s) Subjectif(s)」は直訳すると「主観的断片(複数でもあり得る)」だが、それだと日本語では「思い出のかけら」みたいになってしまうので、「断片的主観性」にしたとのこと。

*5:党派的バイアスを放置はできないが、かといって「全部通せばよい」とも言えない。査読にどのような規範が生きられているかを、当事者的・再帰的にチェックし続けなければならない。

*6:そこでは、遺稿発掘や詳細な解説行為の全体が、党派的な防衛機制として機能するだろう。 同じことは、著名な思想家たちについて常に繰り返されてきた。

*7:ホメロスニーチェの名は無傷に残り続けるし、ガタリを批判すれば「ファシスト!」という罵声が飛んでくるだろう。

*8:いや、これは楽観的すぎるか。 テキストの厳密な分析も、「誰が○○にいちばん近いか」の惨めなゲームに終わるだろうか。 右も左も、どうしてこれほど個人崇拝が好きなのだろう。 分析の課題はあくまで現場にあるのだから、あとは「ヒントをもらえれば良い」ではないか。 この順番が転倒すると、自分の場所(主観性と関係性)をほったらかしにして、つま先立ちのメタ言説でふんぞり返ることになる。この言説状況をこそ “治療” せねばならないのだ。

*9:ナドー氏自身が、(80年代のガタリのように)アイドル的に利用されないかどうか。

*10:この質問は、「ではそう語る自らは、どのような文体や力の場を生きているのか」と、当事者的な問題意識に進むことができる。しかし「資本主義に外はない」とのみ言ってしまうと、単にメタにふんぞり返っただけだ。そう指摘するおのれの言葉は、資本主義の内部にあるのだろうか。だから、当事者性を回避できるとでも? 主観性の問いにおいては、理論言語のミッション(すでに遂行されている加担責任)が問われている。

*11:分析生成としての、主体化/脱コード化/当事者化

*12:私が《つながりの作法》としてしつこく考えてきたのもそういう話だ。

*13:ナドー氏は今後の展望として、「資本主義内部のフロンティア」という言い方をしていて、希望があるとすればここなのだが、今回の講演では、党派性それ自体の脱コード化のモチーフがあるとは思えなかった。

*14:用語解説としては、たとえば『ドゥルーズ キーワード89』p.70 などを参照。

*15:主観性の生産プロセスそれ自体を《苦痛緩和》の主題にすることが、「治療主義」「特異性を阻害する」などと批判される。

*16:ナドー氏は逃走線(lignes de fuite)を、「新しい経験をするために、つねに場所を変えること」と説明されていた。これは日本で浅田彰氏(80年代前半〜)以降に普及した理解とも合致するが、私は逃走線の最も重要な契機を、内在的分析の分節過程そのものと理解している。 《ゲリラになること》が、(1)「単なる移動」なのか、(2)「当事者的な状況理解のやり直し」なのかで、立場が分かれている。

*17:どんな集団や議論も、すでに一定の党派性やパターンを踏襲しているのだから(つながりの作法)、そこに再帰的な検証が働かなければ、実践を支配するメタな構造を分析できないガタリが「メタモデル化」の必要を言うのはこのためだ)。 そこを放置したままでは、ひきこもりの問題に取り組めない。 これは、既存の関係性に巻き込まれる恐怖の問題だ。 「とにかく仲良くなれば良い」は、まったく処方箋になっていない。 これまでの支援事業においては、「党派性に巻き込まれる」ことの恐怖が、喫緊の臨床課題として扱われていない(政府主導であれ在野であれ)。 性愛の難しさも、その一部として論じ得るだろう。

*18:「主観性の生産プロセス」というモチーフが、ひきこもりを考える上で決定的であるという私の理解については、自分で展開するしかないと諦めがついた。

*19:複数性の称揚、メタ言説による研究や「治療」、カテゴリー化された弱者の擁護、名詞形の弱者ポジションへの居直り、etc.、etc....

*20:この意味でこそ、受動性と能動性は絡み合う。

*21:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で直面したモチーフが、あらためて浮上している(参照)。