解体=再編として生きられる、schizo-analyse

ueyamakzk2011-10-01

以下に引用するのは、

に掲載されている、ガタリへのインタビュー「スキゾ分析の方へ」(聞き手・訳は宇野邦一氏)の末尾である。
今回あらためて読み返して、「1984年の時点でここまで言っている、それがちゃんと訳されていたのか!」という驚きがあった。 私が続けている議論にとって、どうしても参照したい部分について、引用してみる*2
なお、太字や赤字等による強調、補注やリンクなどはすべて引用者によるものだが、「1984年に読めていた文献事情」を再現するため、訳文は宇野氏による原文のままであり、修正などは一切していない。カッコ内のフランス語も原文のままである*3



pp.27-29、「スキゾ分析と現場」より

  • 最後に精神病院での仕事と、きみ自身の思索の軌跡との関連について語ってほしい。ボルドのクリニック*4は、きみの著作にどのように入りこんでいるだろうか。

ガタリ それは決して直接的な関係ではない。二十三、四歳のとき私はこの病院の仕事を始めた*5。それまでラカンセミナーにも出ていたし、一定の精神分析学の教育も受けた。しかし現場でおこっていることはそれと全くちがっていた。神経症、ヒステリー、分裂症のどの患者を見ても、精神分析学者たちの教えから想像されるものとは全くちがっていた。私はラカン主義者である一方、同時に精神療法医*6、病院管理者として実践の場をもったんだ。こうして二つの言説を保ち続けた。ラカンを擁護しながら、一方でまともに現場に関わろうとしない精神分析学者の愚かしさを批判していた。六八年の事件*7まで私はこの二重性を保存していたんだ。政治的問題はどうしても放っておけないたちなので、単に理論的な二重性は苦にならなくても、それが政治的な対立にまで表面化すると放っておけなくなった。極左の活動家であり、ラカン主義者であり、現場の精神医であるという三重性にそのままいすわるわけにはいかなかった。ボルドでの体験は、精神分析医としても政治活動家としても、私が他人とは異質のものをかかえていることを自覚させた。他の活動家は私の精神病院での活動に興味をよせながらも、よそよそしい眼でみていたし、ラカンの学校*8でも同じことだった。

  • ボルドによって初めて一貫性を見い出したということか。

ガタリ 一貫性は『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』を書いたとき初めて確立された。しかしボルドによって一つの要請、現場の要請が生まれたんだ。いわゆる文化主義時代の民族学者たちはマリノフスキーを除けば実に不正直なところがあって、現場を視野にいれたならとうてい不可能な粗大な理論化をしたものだレヴィ=ストロースでさえもこのような傾向がなかったとはいえない。分裂症とスキゾ分析(schizo-analyse)の考えは現場の要請から生まれたものだ。最初、病院の仲間たちは〈制度精神療法〉(psychothérapie institutionnelle)をとなえていた。〈精神療法〉という考えはあまりに限定的と思えたので、私なりにいわゆる〈制度分析〉(analyse institutionnelle)の概念を考えていた。〈制度精神療法〉は、人称的、あるいは相互人称的な概念の分析を中心とするものだった。私はこれに対して、無意識形成の分析は、単に心理学、精神病理学などによる相互人称的関係の分析にとどまっていてはならないと考えていたんだ。無意識形成は、様々な生産システムの全体にかかわるものだ。〈制度精神療法〉は〈制度分析〉の一つのケースにすぎないものだと考えていた。無意識は、教育、都市、経済、社会生活、芸術などのすべてに関連するのだ。六八年まではラテン・アメリ力なども含め〈制度分析〉の様々な流れが存在していた。いわば社会心理学的な方法を用いて、精神分析にはない〈言表行為 énonciation〉の分析にも手をつけていたのだが、決して十分なものではなかった。私は〈制度的変換〉とか〈横断性〉といったコンセプトを考え、どんな記号的メカニズムがそこに作用しているか研究しようとした。結局『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』でスキゾ分析を展開したとき、それまでの語彙をすてながら、初めてこれらの問いを明確にすることができた。〈スキゾ分析〉は、〈制度精神療法〉や〈制度分析〉の実践と切り離しては考えられない。精神分析も精神療法も主として神経症を対象としたものだが、スキゾ分析は精神病を中心に扱っている。フロイトが特権化してしまった言表行為の座標をこれによって非中心化しようとしたんだ。

ガタリ スピノザがいったことを思い出さなくてはならない。「歓び」は実に本質的な概念だ。ただそれはそのまま受けとっていいものではなく「歓びの政治学」といったものが必要だろう。思考の座標を変えてしまうユーモアの政治学、意味を無化する転換の政治学を作り出さなくてはならないんだ。確かに悲しみの、絶望の、分離の世界が存在する。しかししばしば、思考の座標の突然変異が発生するのだ。私がいろいろ体験したことのうちでも特にユーモアにみちたことはみな病院で分裂症の友人たちと体験したことだ。私が彼らに影響を与えるよりもはるかに私が影響をこうむっている。私はまるで分裂病の人が見るように人々や世界を見ていることがある。突然の禅問答の閃きのようなもの、この地球上でいったい何をしているのかという思いがやってくる。若かった頃、ある患者と大変親しくしていてよく雑談したものだったが、あるとき彼は私の話を聞きながら、長い間じいっと私を見つめていた。それでも話し続けていると、彼は私の眼をのぞきなから突然、「この男はまだ喋っている」といったんだ。私の言葉がぜんぶずれ落ちていくみたいだった。他の場所ではまずありえないことだ。分裂症自体がユーモアに満ちた歓ばしいものだということではない。そんなことがあったら、それこそ革命だよ。精神病はおそるべきものだし、病院はすさまじい場所だ。分裂症になることが新しい革命の道だ、とそんなことを私たちが主張したとけなす連中もいた。そうではなく克服しうるものとしての分裂症的プロセス、そこにおける様々なアレンジメントの破壊、特異性の介入、そこに目を向けることは、ものの見方を変え、笑いをひきおこすんだ。生は不吉なもの、恐ろしいものだが、実に愉快なもの、不思議なもの、新しい事態がつねに発生し、冒険もたえまない、そして何という不幸、スキャンダルが続くことか、そしてそれらすべてを前にして一体何をあわてることがあるだろうか・・・・・

    • (このインタビューは1984年3月30日、パリから南へ約150キロ下った村、デュイゾンのガタリの家で録音したものである。彼の勤務するボルド精神病院はその近くにある。)

(Félix Guattari ・精神医学)*9


関連メモ

    • 日本語圏で「schizo-analyse」が論じられるときは、大抵はいきなり精神分析との関係で論じられるのだが、ガタリはこのインタビューで、「schizo-analyse は、psychothérapie institutionnelle や analyse institutionnelle の実践と切り離しては考えられない」と明言している。 それゆえ、ラボルド病院の実務を検討せずに「schizo-analyse と精神分析」を論じても、実りのある話になるとは思えない。



統合失調症(schizophrénie)への参照では、「思考座標の突然変異の発生」が求められている。さてそこで、「克服しうるものとしての分裂症的プロセスというガタリの表現がカギになる。 分裂症 “的” プロセスとは何だろう。 またそれが、「克服しうる」とは何のことか。

統合失調症 “的な” 解体ゆえに可能になる「schizo-analyse」。 その分節プロセスは、座標軸の解体なしにはあり得ないし*10、この分節の内的必然性の強度が、底の抜けた解体状況への「プロセスとしての回答」になる。 ある根底的な解体ゆえに可能になる再編であり、このプロセスを生きることが、論じる側にとっても、また論じられる環境や対象者にとっても、《治癒/改革》として機能する。

逆にいうと、治癒や改革がめざされるのは、この解体=再編成のプロセスができない状況に対してであり、ここにおいて、必然的分節が生きられない理由が探される。その理由は、生化学的なことかもしれないし、私たちの主観性や関係性のスタイルに関わることかもしれない。



【10月2日の追記】 《治す》という概念について

上記ガタリの発言より:

 精神分析も精神療法も主として神経症を対象としたものだが、スキゾ分析は精神病を中心に扱っている。

これは言葉のアヤではなく、「schizo-analyse は、精神病の苦痛緩和に必要な取りくみ方だ」ということだろう。


ラカン派vsガタリ》を描こうとするのに、たとえば次のような決まり文句がある: 「ガタリは資本主義の矛盾に目を向け、批判的姿勢を貫こうとしたが、ラカン派は、社会順応的な治療主義でしかない」*11。 しかし、今回引用したガタリの発言に鑑みれば、そんなに単純なことではないと分かる。


ガタリは、精神疾患の苦痛(ウリ的に言えば、社会的疎外に還元できない精神的疎外)について、それを単に包摂すれば良いと考えていたのではなく*12、苦痛機序に内在的な取り組みが必要と考えていたのだろう。 そしてそれはガタリの場合、単なる迎合主義ではない。


ラカン派では、《guérir 治す/治る》という概念の扱いに慎重だったはずだが、ガタリはここで、「おそるべきもの」としての精神病と、どう付き合おうとしているだろう。恐ろしいのであれば、「治る」ことも目指すべきではないか(どんな点において?)。 臨床事業としての schizo-analyse は、どんな努力を引き受けているだろう。


(引用部分の掲載誌の裏表紙)

*1:品切れ状態だが、古書店等で比較的安価に入手できる。 たとえばこちらで、《現代思想 1984年 臨時増刊 ドゥルーズ=ガタリ》 で検索すると、12件ある。

*2:分量がやや多すぎるかもしれませんが(参照)、この内容こそが現状のガタリ論で無視されている、という反論の意を込めて、踏み切りました。(権利者からのご抗議があれば、すぐに対応いたします。)

*3:〈言表行為=énonciation〉など、原文のほかの箇所に記された情報はこの引用部分に追加した。なお録音ファイルやフランス語原文は、公刊されたものとしては存在しない。

*4:ラボルド病院のこと。 【cf. 中村総一郎「クリニック・ドゥ・ラ・ボルドを訪ねて」(PDF)】

*5:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』(p.290)の年表によると、ジャン・ウリがラボルド病院を設立したのは1953年であり、ガタリは1955年頃から協力を始めたとされる。ガタリは1930年の生まれだから、「23〜4歳のときに始めた」という彼の記憶が確かなら、設立直後からこの病院にいたことになる。

*6:ラボルド病院と関係者に直接取材した精神科医三脇康生氏によると、ガタリは正式には何の資格も取得していないとのこと。ラカン派の分析家にもなっておらず、無資格で働いていた。

*7:1968年5月の、いわゆる「五月革命」のこと。 この運動をめぐるラカン派周辺の状況に、ガタリは「深い怒りを覚えていた」という(本インタビュー冒頭)。

*8:もとの単語はおそらく、「学校」と「学派」の両方の意味をもつ「école」だろう(参照)。 「ラカン派」とせず、わざわざ「学校」と訳した宇野氏の意志を感じる。

*9:ガタリの専門は、わざわざ「精神医学」と記されている。

*10:すでに存在する座標軸に合わせる分節でしかないなら、それは「その場で一からやり直すような」分節プロセスになり得ない(「暗黒の中での跳躍」ではなく、いわば「足のついた」思考)。そのようなものは、本当の意味での分節欲望の開花になり得ない。

*11:このような視点から、ジャン・ウリのことも「あいつはラカン派でしかない(=治療主義でしかない)」と批判されることがある。 しかし少なくとも、「治療環境を治す」という主張をふくむウリの立場は、単なる治療主義には還元できない。 ラカンvsガタリ」の構図ありきで、ガタリが真剣に取り組んだラボルド病院の実務を考えようともしないなら、そのような批判は聞くに値しない。

*12:それだけでは、安易な「脱施設」主義や反精神医学になってしまう。ウリがフーコーを批判するのは、この意味でだろう。単に社会的に包摂するだけでは、精神疾患の苦痛機序に誠実に付き合ったことにならない。これは、「ありのままの存在」を「全面肯定」するだけの当事者論の、限界でもある(参照)。