差別と不活性を助長する当事者論

小泉義之氏の tweet より:

 「ほとんどすべての寛容の対象は、許容されることで、逸脱したもの、周辺的なもの、望ましくないものとして印づけられる。」(ブラウン『寛容の帝国―現代リベラリズム批判 (サピエンティア)』より)

 マイノリティの自称集団文化は、寛容の帝国では〈われわれは(リベラルな主体として)文化を選択し所有するだけだが、かれらは文化に所有され文化そのものである〉と見なされる。その文化・集団は狂信・野蛮・退行・権威的パーソナリティへの傾きがあると見なされる。そして再び寛容。

山森裕毅氏

 ドゥルーズが生成を存在に関わらせていたが、生成の議論は本質の議論とも関わるのかもしれない。存在は「○○がある」といえ、本質は「○○である」といえるが、ここでの話としては、ある社会的なカテゴリーが個人の存在の本質かのように機能してしまっている。「○○になる」としての生成が見落とされている。ある事柄に対して当事者化するとそれが個人の本質として周囲の人々に認識され、いつまでもへばりつき、脱当事者化のような生成は認識に上らないという事態が起こる。いつまでも当事者で居続けさせられる。



名詞形で名指されることは、カテゴリー化されて差別されることでもある。
「この人は○○だから」
こうした場では、《当事者》は名詞形で名指されるマイノリティのことだけになってしまう。しかしむしろ考えるべきは、いわば全員の当事者性であり、誰もが責任追及の対象になり得るということ。実際の言動や関係性がフェアだったかどうかは、大文字の正義では語れない*1


「名詞形マイノリティへの寛容」でアリバイを確保した関係性は、形だけのPC言説で100%のメタな正当性を与えてしまうため、当事者概念が責任追及の用語でもあることが忘れられてしまう*2
なんという幼稚で傲慢なインテリごっこだろう。しかし本当に居場所のない人たちには、名詞形による形式的確保も有益であり得る――その確保が依存症的に維持されてしまえば、もう主観性や集団の問題は問われなくなる参照1)(参照2


名詞形のマイノリティ性に居直る集団や言説は、生成過程におけるマイノリティ性に徹底して鈍感だ。私は名詞形で名指される当事者性ではなく、動詞形にならざるを得ない当事者性を執拗に問うている。静止画像で確保して終わる当事者論には、不当さと臨床的不活性が詰まっている。

【付記】

  • DSM-IV における「名詞形の臨床カテゴリー」にも、同じ問題がある参照1)(参照2
  • たとえば「ひきこもり」という名詞形は、ある状態像に名前がない苦しさに名をもたらした意義はあっても、語それじたいが意識や関係を設計してしまう。名称それ自体が規範的であり、本人の意識を閉じこもらせる動的な意義さえ持ってしまっている。
  • 「ニート」って言うな! (光文社新書)』は、実は「ニート」それ自体より、名詞形の名指しであったことに問題の核心がある。たとえば「失業者」と名詞形でいう場合と、「失業中」と動詞的にいう場合は、それだけで処理のスタイルがちがい、心理的な位置づけすら違ってくる。
  • にもかかわらず名詞形カテゴリーは、差別される側から積極的に選びとられ、自称されることがある。自虐的な名指しが、社会規範への間抜けた従順さを示す。へりくだっているから事態が変わるかと言えばそうではなく、むしろそのような名指しが言動をパターン化させ、状況の全体を硬直させている。
  • こうしたすべてから剔抉できるのは、あらゆる場面における嗜癖的な自己確保である。一つひとつの名詞形はメタ言説と結託し、嗜癖プロセスを構成している*3


*1:反差別の運動をともなう左翼系コミュニティは、人間の名詞形への還元を断固として維持するため、むしろ耐え難い差別発言の温床となっている。そうした実態は、「反差別」という大義名分の陰で、偶然的なスキャンダルとして処理され、隠蔽される。しかしこれは、関係性のロジックそれ自体がもたらす構造的な反復だ。

*2:日本語でも、「当事者意識を持てよ!」という怖い言葉があるではないか。これは、順応主義的に確保された「知らん顔」に対して、べつの生成を求めている。

*3:たとえば「民族名」も、嗜癖的自己確保の装置であり得る。宗教/民族意識/差別などを、嗜癖問題として再構成する必要を感じる。 「名詞形とメタ言説は、私たちのアヘンである」。