「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」

山森裕毅氏のご教示で知ったのですが、

原書の初版である1977年版にある記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」という章が削除されており、この章は題を変えて邦訳『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』にあるものの、その最終節「制度におけるシニフィアンの位置」が省かれています(訳者あとがきも参照)*1

男性名詞「échafaudage」を仏和辞書で引くと*2

  1. (建築用の)足場 ex.「dresser un échafaudage 足場を組む」
  2. 積み重ねたもの ex.「échafaudage de livres 積み上げた本の山」
  3. (理論などの当てにならない)寄せ集め ex.「Sa théorie n’est qu’un échafaudage d’idée reçues. 彼(女)の理論はありきたりの考えの寄せ集めにすぎない」

とあります。


いっぽう「sémiotique」については、ここでは形容詞として「échafaudage」にかかりますが、同じ形のままで名詞でもあります。 似た名詞「sémiologie」が形容詞化すると「sémiologique」。 これについては、山森裕毅氏「フェリックス・ガタリにおける記号論の構築(1)」*3の説明を参照してみます:

 本稿では記号学記号論という用語を頻繁に用いる。 前者は主に sémiologie の訳語、後者は主に sémiotique の訳語に当たる。 記号学ソシュールに由来する。 言語学を記号の中心的な位置に置くことで、言語の働き方からその他の記号の働き方を考察するものである。 記号論言語を記号の一種とみなし、広く記号機能や記号過程を捉えようとするものである。 こちらはパースに由来する。 ガタリがこの区別を意識的に導入するのは『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)*4からであり、それ以前は取り立てて区別せず乱雑に用いている。 (p.155)



私はこの「échafaudage sémiotique」がたいへん気になり、ネットで検索をかけたところ、ガタリの本『Les années d'hiver 1980-1985』に次のような記述があるのを見つけました(参照*5

 C’est pourquoi chacun reste cramponné à ses échafaudages sémiotiques ; pour pouvoir continuer à marcher dans la rue, se lever, faire ce qu’on attend de lui.  Sinon tout s’arrête, on a envie de se jeter la tête contre les murs.  C’est pas évident d'avoir le goût de vivre, de s’engager, de s’oublier.  Il y a une puissance extraordinaire de l’« à quoi bon !» C’est bien plus fort que Louis XV et son « après moi le déluge » !

同書の邦訳『闘走機械』(p.101)から、同箇所をあえてそのまま引用します:

 だからこそ、誰しもが自分のつくりあげた記号的構築物にしがみついているんだ。そうしないと、通りを歩いたり、起き上がったり、自分に期待されていることをするといったことをつづけられないわけだ。生きることに喜びを見出したり、何かにコミットしたり、われを忘れたりすることは、そんなに容易なことじゃない。 「そんなことをして何になるんだ!」ということのとてつもない力というものがあって、それはルイ15世や彼の「あとは野となれ山となれ」というやり方よりもはるかに強力なんだ。

なんということでしょうか。


これまで、なぜガタリ記号論を強調するのか分からなかったのですが、
彼の中では、制度論的な問題意識と、記号論が、しっかりつながっていた・・・!



*1:精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』の訳者あとがきでは、「échafaudage sémiotique」が「記号論の構築」と訳されている。これだと、主観性の生産過程それ自体の固着や再構成が問題になっていることが理解しにくい。

*2:本エントリー内の強調は、すべて引用者による

*3:大阪大学大学院人間科学研究科『年報人間科学』第32号(2011年3月)pp.153-171 掲載(参照

*4:原書の初版は1979年

*5:原書の初版は1986年で、2009年の再刊本では p.120 にある。