「まちがっている」ことと、「病んでいる」こと

Masochism: Coldness and Cruelty & Venus in Furs (Zone Books)掲載、
ドゥルーズ 「冷たさと残酷さ Coldness and Cruelty」 より(参照):

 《(文学的に)批評的であること》 と 《(医療的に)臨床的であること》 は、相互に学び合う新しい関係に入ることを運命づけられているだろう。
 The critical (in the literary sense) and the clinical (in the medical sense) may be destined to enter into a new relationship of mutual learning.



ジャン・ウリガタリ的な臨床を扱った『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』では、「治療環境への治療」という話がなされている(p.i)。 治療する側も環境の一部であり、自分を含んだ環境それ自体が《治療し/治療される》関係を営む。
では、誰がどういう権限で治療するのか。 誰が正常で、誰が病んでいるか。(「治療してやる」という認識や態度は、それ自体が病んでいるかもしれない。)


「環境を治療する」とき、治療者を自任する者は環境の内部にいる。 しかし内部にいながら、どうやって治療する側とされる側が分離できるのか。水の中にいる水が水を治療するような。


「まちがっている」*1ことと、「病んでいる」ことが重なる。 政治思想と精神病理学は、同時にしか遂行できない。
論じる自分は、(とくに勉強していなくとも)すでに一定の法哲学/精神病理学を生きてしまっている。その論じる自分のプロセスがすでに臨床過程を内在的に生きることであると自覚しなければ、どんな議論も始められない*2。 政治をめぐる環境整備や Due Process が臨床過程であり、clinical practice / psychotherapy が法実務や政治実践である――これを内側から語らなければ。


安易にメタに立てると自称する者は、自分の《主観性/関係性》が病んでいる可能性に気づけない。
自分を100%の正義と勘違いする “評論家” は、お医者さんごっこのナルシシズムに淫している。 あるいは、「批評は治療ではない」という人は、自分の言説ですら医療行為のような責任を帯びてしまう(避けようと思っても関係はすでに営まれている)、その実態を無視する。


ひきこもる人は、メタ的正当性の確保に汲々としつつ、関係実態には手がつけられない。思考と親密圏が乖離し、怒りや罪悪感だけが治癒不能のままうずき続けている。――メタ言説は、苦痛に満ちた構造反復の共犯者となっている。




「医療言説だけは病んでいない」

ラカンを真似て「全員が病んでいる」という斎藤環氏は、カフカの門では「私はすでに門の向こう側にいる」――自分はすでに「絶対的な正常さ」に到達した後の姿だ――という(参照)。 ここにある端的な矛盾に、彼の臨床論の欺瞞が集約されている。
門の向こう側は、斎藤氏にとって「社会参加していること」*3であり、彼じしんの参加は医療言説のメタ的正当性に担保されている。彼は、医療言説を口にする限り「絶対的に正し」く*4、それを口にすることで営まれる関係性については、検証される必要すらない*5


もし全員が病んでいるなら、門の向こう側には誰もいないはずだ*6。 ひきこもる人も雇用された人も全員が門の手前にいて、その病み方にはさまざまな事情があり、お互いにとばっちりを掛け合っている*7。 とすれば、この「病んだ人間しかいないこちら側」をマネジメントする活動を営むしかない。(メタ言説がないとはそういうことだ)

ひきこもる人の多くは、「それだけは病んでいることのあり得ない医療言説」で自分を語ろうとし、状態を悪化させてゆく。 しかし「メタ言説はない」、つまり医療言説も病んだままでしかないのだから、暫定的な取り決めに従いつつ、協働的な改善努力を続けていくしかない*8



*1:法的・政治的・倫理的に、あるいは何らかの学問的に

*2:「臨床は医師だけが語るべき」という人は、免許をとるまで親密圏も作らないでほしい。――免許がないまま、私たちはお互いに幼少期から影響を与えあい続けている(今もそれが続いている)。

*3:ひきこもる状態は、社会関係の部分ではないかのように語られてしまう。――いっぽう左翼的な人たちは、ひきこもる状態を「それも社会参加だ」と言いつつ、検証もせずにそのまま肯定してしまう(全面肯定)。 本当になすべきなのは、「関係性があることを認めたうえで、その実態について協働的に検証し、強制力が必要ならばその手続きを整えること」(社会思想で語られているように)であるはず。

*4:医学的知見が “エビデンス” で訂正されることはあり得ても、医療言説それ自体がお互いの関係性のなかで保つ地位は、絶対的なまま揺るがない。 この言説のメタ領域が、目の前の関係性を侵食してしまうのだ。

*5:それと同様の静態的正しさを引きこもったまま実現しようとするところに、ひきこもりの「全面肯定」がある。いずれも自分たちの「正しいあり方」をスタティックに固定するのみで、動きのなかで自他の関係を考えるという営みになっていない。(診断カテゴリーで固定的役割を付与してしまうのも同じ作業にあたる)

*6:門の向こう側を「成功した状態」と考えるなら、「成功する行為は自殺だけだ」というのがラカンの議論だった。 ⇒「自殺は、失敗を伴わずに成功し得る唯一の行為なのです」(『テレヴィジオン』p.106)。 どんな社会的行為も失敗してしかあり得ないなら、その検証(素材化)こそが現世的な関係手続きになる。

*7:ひきこもる人は、家族にとっての「監禁屋」として現れていることを忘れるべきではない(参照)。 支援現場や自助グループでは、つねにカルト的監禁やDV的関係性が問題となる。

*8:《改善のための制作過程に参加する、そのための手続きやシステムを工夫する》というスタンスでなければ、臨床という参加過程が、ポスト・フォーディズムの一部になってしまう。【ここでいきなり「ポスト・フォーディズム」という語を出しても、イデオロギーを確認するようなことにしかならないので、消しました。すみません。】