生産と承認の様式

ひきこもりにおいては、硬直した自意識やメタ言説の万能感など、ナルシシズムの問題を避けて通れないが*1、それを「自己愛性人格障害」と名指して終わらせるナルシシズムが繰り返される。 論じる自分が、どういう様式を反復しているのかという当事者性を忘れている(その忘却を引きこもる本人が踏襲する)。


「当事者性」で問い直されるべきなのは、

    • 言説がくり返す生産様式
    • 関係性(社会的承認)が維持する方針
    • 実際に生きられたいきさつ

であって、「かわいそうな弱者を特権扱いしよう」ではない*2。 責任の問われ方がどういう前提をもっているかであり、自分でそれをどう扱うか*3


人を役割に固定し、あとはメタな正義言説で終わらせる――ここでは誰も当事者意識を持たない*4。 最悪のナルシスト環境だが、この集団的方針を論じずに、ナルシシズムに浸る個人への攻撃で終わってしまう(言われた側もそうとしか受け取らない)*5。 《主観性の生産と承認関係》の集団的方針を問い直すべきなのに、意見や反論がすべて個人化され、自己愛への攻撃として処理される。


《生産と承認》の集団的方針にこそ元凶があるので、そこに留まって考えざるを得ない。いつの間にかある様式を選択し、「それに則ってやってしまえばいいや」とはならない。その居直りがどうしても成功しない(そのつまづきは私にとって倫理に等しい)。 ひきこもる人も元気な人も、ある無自覚な方針に居直って検証を拒否している。


ひきこもりを論じるときには、一方的な思い込みの暴走こそがまずい。 論じるという営み自身がはまり込むナルシシズムを問い直す姿勢をもたない人には、ひきこもりは論じられない*6


そもそも引きこもりでは、真剣に考えようとする努力がすでに《ひきこもりを生産する様式》を反復してしまっている(洗浄強迫のように、努力すればするほどひどくなる)。 「努力が足らない」とばかり言う人も、特権扱いするだけの人も、生産と承認の様式こそが問題であるという最重要のポイントを論じられない。


「ひきこもり当事者」として役割固定されることは、むしろ当事者意識を阻害し得る*7。 当事者ナルシシズムに監禁し(それは差別でもある)、置かれた状況を分節し直す作業には目が向けられない。 自己治癒の努力において最も重要な、集団的な当事者化の作業は、尊重されるどころか忌避される。

  • 以下の2つが共犯関係にある。
    • 《生産と承認の様式》を問い直すことをしないメタ言説
    • 「私は○○当事者」というカテゴリーへの居直り



メタ言説のナルシシズムに淫する人たちは、自分を論じることにおいて異様にナイーブ。 難解な社会思想を論じているのに、いざ自分については幼稚な告白本レベルでしか語れない。



*1:ナルシシズムこそが、疎外の問題として語られる必要がある。ナルシシズムを増悪するような語りのスタイルがあるのだ。私自身が繰り返しそのような語りに譲歩し、淫してきた。

*2:かわいそうな一人という扱いをするなら、「そういう社会的処理を演じている」ことになる。その方針を反復する共犯者であることに当事者意識を持てるかどうか。

*3:集団的に選びとられている方針は、うまく自覚されない。すでに生きられている方針には、自覚されざる党派性がある(参照)。

*4:当事者性を問うことがあっても、役割を固定された《当事者ナルシシズム》しかない。その特権化された当事者に肩入れしていれば(いつの間にか権利を代表する)、無条件の正当性が手に入る。 人種、性的少数者、被災者、「プロレタリア」など。 政治と運動の言説は、見えない当事者論に構造化されている。

*5:問題設定が、「集団的な言表の様式(agencement collectif d'énonciation)」というモチーフへ向かわない。

*6:既存の引きこもり論者の全員にこの問いを突き付けたい。 あなたの「論じるルーチン」を満たすために、ひきこもりをネタにしているだけではないのか? ひきこもりという現象が何を体験することになっているか、それを内側から(取り組みプロセスに生じている困難として)論じる姿勢がありますか? 《生産と承認の様式》にこだわることは、あなたにとって他人事なのか?

*7:生産と承認について、自分がどういう様式を生きているかを検証できなくなる。ある固定された《生産と承認の集団的様式》を押しつけられることになる。