科学でも詩でもなく、技法が要る

    • 主観性の自己管理のあり方と、つながりのありかた
    • つながりの実態が secret であること*1

主観性の管理様式*2が決まってしまえば、つながり方の選択はすでに終わっている。


自分が抱える思考の必要を既存学問に閉じ込めることに成功した人たちは、自分で考えざるを得なくなるいきさつ*3については、その必要性を理解する能力すらない*4。 メタ言説の優等生ごっこで人生を終わらせることが本当にできてしまう。
そして逸脱者たちも、過剰流動性のなかではベタな順応しか思いつかない。 細切れの労働時間で「メタな何かに消費される」以外に人とつながる方法がない。 生活の必要が思考をつぶす。


既存学問と、あとは適当に2ch 用語を連発してメタごっこのジョークに興じれば、生きる時間は埋め合わせられるのだろう。 彼らにはそれ以上の必要がない(あるいは気づいていない)。 やむにやまれぬ分節、それが必要とする関係の技法については、必要性が説得できない、だから独自の作法がつぶされてゆく。 ▼「私たちと同じようにつながりなさい」。 これは実存の管理法を彼らと同じにせよ、という命令だ。


ソーカル問題における「科学か、詩か」。 彼らはこの両極をカテゴリー化し、分類すれば済む。 しかし科学とも詩とも言えない分析を必須とし、しかもそれが人を説得する必要を持つなら*5、《技法》が要る。 科学や詩への居直りは、技法という論点を既決事項として抑圧する。


日本の《当事者》概念のおかしさは、ドゥルーズ/ガタリ研究者がご自分の主観と関係性を話題にできない抑圧と関係している。 主観と関係性の管理のあり方(agencement collectif d'énonciation)は、危険な中でも最も危険な話題であり*6、この特異な論点様式こそが抑圧される。 そして「ひきこもり」は、苦痛やトラブルの実態がこの特異な論点を内的に必須としている。 メタ言説とは別の、内在的な分節*7が始まらなければ引きこもりに取り組めたことになっていないのに、その肝腎の生産が抑圧され、型どおりの、問題構造を反復するマッチポンプ以外認められない(主観的にも関係的にも)。
主観性と関係性の生産様式が、問題構造を再生産し続けている。


知識人のコミュニティが、メタ言説への嗜癖業界と化している*8。 アルコールやギャンブルなら問題化しやすいが、メタ言説は、いくら嗜癖しても問題になりにくいどころか、当事者たちにとってみればその嗜癖こそが主観的にも経済的にも生活を支える。 「あることを理解しないことによってお金を得ている人間に,そのことを理解させるのはむずかしい」(参照)。 読者・視聴者との共依存関係が、この嗜癖業界を支える。


「ひとりカルト」としての引きこもりは、バラバラに量産される集団的な嗜癖として主題化されざるを得ない。 医師や学者がメタ言説に嗜癖している現状では、この問題構造は扱えない。 この状況全体に取り組む技法が要る(自分だけはそこから切り離れているなどとは絶対に言えない)。



【追記】

リベラリズムでは、どんな多様性も許されるが、知識人の関係実態を話題にすることだけは許されない。彼らはメタ言説でアリバイを得ているので、「自分が実はどうやってるか」を話題にされることを怖がる。いっぽう引きこもり問題では、「実はどうやってるか」の部分でしか必要な話はできない。
ひきこもりを話題にすれば、かかわる人すべての自己管理や関係の実態を扱わざるを得ないし、その素材化の営みこそが、関係を基礎づける労働となる。(知識人や支援者だけは「すでにうまくやってるから不問にされる」なんてバカな話はない。彼らじしんが嗜癖的主観や関係性を反復する元凶にもなっているのだ。)
ここで提案されているのは、労働と関係のあり方そのものであり、「多様性を肯定する」などというメタ規範でナルシシズムに陥ることは許されない。




*1:うかつにも知られたつながりには、醜態が常に演じられている。 ここにこそアーカイヴ化が必要なのだ。 「民衆の声」とかのくだらない(自分はメタポジションを維持した)ナルシシズムではなく、知識人自身が《みずからを素材化する》取り組みを始めるべき。――とはいえそこには技法が要る。 分析の必要を単に規範として語っている間は、技法はない。

*2:mode of production of subjectivity

*3:「自国語そのものの中で、外国人のように話す」(『ドゥルーズの思想』pp.8〜11)。 その必要を、PC的イデオロギーで終わらせるのがダメ左翼。 ▼「やむにやまれずそう語るしかない」を抑圧するか否か、そこで言葉がくり返し試行錯誤される。思考の受動性とはこのことだ。

*4:内容を知的に理解する以前に、「なぜそんなことを考える必要に迫られるのか」が理解できないのだ。

*5:政治とは、硬直したイデオロギーに居直ることではなく、「説得の必要をもつ」ということだ。だから、単に詩的(=私的)分析に居直ることもできない。

*6:なぜならそれは、生活を支える党派性の根幹にかかわるから。 党派性の分析が必須の労働なら、そこには大きな報酬があってもいいはずだが、今のところ無償労働としてしか成立していない。(そもそも報酬の多くは、分析を抑圧する「党派的隷属」に対してこそ支払われる。)

*7:ドゥルーズガタリが無意識を生産として論じたのはこれだろう

*8:いわゆる「当事者性」を標榜する人たちにも、主観と集団を同時に扱える人は見当たらない。