原因なき世界での、意味への嗜癖

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題



傍線や付箋・書き込みだらけになった。
ひきこもりを論じるために、本書を基本文献の一つに挙げたい。
理解できない部分、疑問の残る部分もあるが、今回は、私が引きこもりでいちばん核心的だと思うモチーフに関連して*1

 ここで私たちは、この夢にかんするラカンの評釈の検討をしばし中断し、「原因」という語が、私たちの辿りつつある文脈において、すなわち、『セミネールXI*2のはじめの数章においてもっている、重さと響きを思い出しておかねばならない。 このセミネールのなかで、「無意識」を皮切りに四概念の再定式化にのりだすとき、ラカンが、法はシニフィアンの連鎖の中で決定力をもつものである、と述べながら、「原因」と「法」とをはっきりと峻別することからはじめていることはきわめて印象深い。
法は(なにかを)決定するものである。 原因はそうではない。 それはどういう意味だろうか。 それは、原因は説明しない、ということである。 原因はなにも説明しない。 それだから、たとえばオーギュスト・コントは、彼自身もまた原因と法とを区別しつつ、前者の探求を拒絶する――科学は(自然科学も社会科学も)感官の所与を、すなわち観察しうる経験の所与を説明するもののみに関わるべきである、という理由で。 こうしたコント的歩みは、いうまでもなく、ラカンのそれではない。 そして、まさにそこにおいてこそ、精神分析はいわゆる実証科学から決定的に自らを分かつのだと言ってよい。
精神分析は、「原因」を切り捨てはしないのである。 だが、法と区別され、決定力をもつものの座から罷免されたような「原因」とは、つまるところ、いったいなんだろうか。 この「罷免」は、ラカンにおいて、真に徹底的ではないだろうか。 というのも、このように決定機能を奪われた「原因」は、「決定されるもの」の範域にではなく、「決定されざるもの」ないし「非決定なもの」の範域へと置き直されるからである。 そして、ラカンはまさにこうした意味において、原因の「開口部」ということを問題にする。それはこう定義されている。 「原因というものの機能が、およそいっさいの概念的把握にたいしてつねに差し出す開口部。」 別の言い方をすれば、原因の概念のなかで「反概念的な」もの、あるいは、『負の大きさについての試論』においてカントが用いている語にしたがえば、そのなかで「分解不能な(unauflöslich)」ものである。
 ところで、ラカンがこのセミネールで改めてフロイト的無意識を位置づけ直そうと試みるのは、まさにこの原因の開口部において、いやむしろ、この原因の開口部として、にほかならない。 つまり、現実界――あくまで決定不能であるがゆえに非決定のまま留まるところの――にたいする症状の関係がいかなるものであるのかを示す、縫合不能な穴としてである。 (『精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題』p.136-7)



ひきこもる意識が何に取り憑かれているかといえば、
《原因》を、合理的な意識の言葉で説明することではないのか。 「そうか、わかった! 自分はこれのために生まれてきたんだ!」と解明できなければ何もできない、原因のない命令に支配される理不尽に耐えられない。 詰め物のない空虚をどう維持していいか分からない。


立木氏の説明に従うならば、ひきこもる意識は、無意識を根絶しようとしている。


わがままとは、原因への納得がない限り動けないことであり、じつは徹底的に近代的な意識ともいえる。 現生には、「じゅうぶんな原因」がない。 底が抜けており、意味をあてがうことができない。 その《意味の詰め物》を絶対条件と勘違いすることが、近代意識の嗜癖であり、これにお互いが巻き込まれる*3


ひきこもる人は、「意味のないことをやってはいけない」という超自我の命令に、雁字搦めになっている。――彼らが想定する形をした意味は、現生にはない。 だから、これまでとは別の《意味のようなもの》を、人生論や優等生ごっことは別のかたちで造形せねばならない。 制作過程が倫理的実践であるような生の時間を、工夫しなければならない(私はその話をひたすらしている)。


ひきこもりの無為は、《中身を喪失した「○○すべき」への嗜癖という形をしている*4。 これは、再帰性に取りつかれた近代的意識の事情そのもの。
いわば「無意味フォビア」であるこの状態を解除するには、「意味を詰める」*5のではなく、《孔を堅持》*6するしかない(参照)。 これは、抹消することが不可能な無意識の場所を確保することに等しい。 意味づけることのできないものに、意味を与えようとする暴挙をやめること。



嗜癖フレームとしてのメタ言説

 しかしフロイトは、超自我の締めつけに苛まれる自我のありようについて、さらに強烈なイマージュを持ち出してくることをためらわない。 『自我とエス』の第V章において、フロイトはこう述べている。 「自我が超自我の攻撃に苦しみ、そればかりか、その攻撃に屈してしまいさえするとしたら、自我の運命は、自らがつくり出した分解生成物によって死滅する原生生物のそれとまさに瓜二つである。経済論的な意味でこうした分解生成物にあたるものこそ、われわれの見るところ、超自我のなかで働いている道徳なのである。」
自己の排泄物によって死滅してゆく下等生物のイマージュは、すでに『快原理の彼岸』において、ウドラフのゾウリムシ実験にかんするフロイトのコメントのなかに表れている。 だが、ここでの原生生物の譬えは、たんに、タナトスがその第三時間においても、すなわち「超自我による自我の道徳的締めつけ」というその組織化された形態においても、主体を死に導くというもともとの目的を遂行している、ということを強調しているにすぎないのだろうか。 私たちの考えでは、そうではない。 このイマージュは、むしろ道徳性をある種の「中毒」に、アディクションに、接近させる射程をもっている。 自我は自らの死の欲動で慢性的な自家中毒を起こすのであり、そのとき自我をこの中毒にいわば「はめる」役目をする装置が超自我なのだ、と言ってもよいだろう。 実際、私たちがここで中毒を思い浮かべるのは偶然ではない。 フロイトは、このような相のもとに現れる「超自我/自我」の関係を、まさに Abhängigkeit と、つまり「依存」と、呼んでいるのである。 (『精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題』p.216)

 私たちの考えでは、超自我にたいするこのような「依存」の回路そのものが外在化されることが、すなわち、そうした回路がアルコールや薬物や暴力的な他者との関係のなかでマテリアライズされることが、精神分析(ならびに精神医学や心理療法)に今日大きな臨床的課題を突きつけているいわゆる「依存」一般のメカニズムにとって本質的な役割を果たしている。 それどころか、まさにこの超自我にたいする自我の依存」こそが、およそ「依存」の名で呼ばれている病理的現象のプロトタイプであるように思われる。
私たちはさしあたって、この点を仮説以上のものとして差し出すつもりはない。 しかしながら、その意味するところはけっして小さくはない。 なぜなら、もしこの仮説を受け入れるなら、私たちは「依存」アディクション、中毒)の病理を、「暴力性」および鬱病フロイトのことばでは「メランコリー」)と並んで、まさに死の欲動にじかに結びついたものとして、捉え直すことができるからである。 いいかえれば、私たちはこれら三つのきわめて現代的なテーマを、すべて「タナトス問題系」とでも名づけるべきひとつの統一的なカテゴリーのなかに書き込むことができるかもしれないのである。 (同書p.216-7)



「道徳という、自己の排泄物で死滅してゆく」――ひきこもる姿そのものだ。

現生に意味がないことを受け入れられず、それゆえ意味の探求に嗜癖し、それがそのまま自分を監禁するフレームになっているとしたら、

    • アルコール依存症者に酒を与えるように「意味を与える」ことで元気にさせるか、
    • さもなくば、意味そのものを形式的に禁止してしまうしかない。

腐った人生論を垂れ流す支援者は、自分を「意味」として差し出すことで、共依存を社会化とすり替える。


いっぽう、学問やメタ言説は、それ自体が嗜癖のフレームになっている。

    • メタ言説でいくら引きこもり論をしても、ひきこもりと同じ嗜癖を反復しているにすぎない。 これでは、処方箋を出すことはできない*7
    • 良心的知識人が、せいぜい多様性を肯定して自分の PC*8的正しさを確認することに留まり、みずからが加担者となっている苦痛の考察にまで至らないのは、彼らじしんが意味の嗜癖症者であることによる。



対人支援者は、自分を共依存の対象として差し出すが、知識人はメタ言説を、嗜癖対象として差し出す。
彼らは、意味の詰め物に見える言説の生産態勢に嗜癖し、無意味の穴を抹消する*9。 書き手も読者も、メタ言説に嗜癖するかぎり、当事者的分析――「問題になっているのはお前だ」という現実的なもの――を排除する*10


現代人は、資本活動に嗜癖するように、メタ言説に嗜癖している。 ひきこもる人は、その正確な裏面に見える。



【覚え書き的な追記】

  • 単に敗北し、他者に向かうことができないケースは、意味への嗜癖とは別に見える。不信感への逃亡、単なる怯え。(斎藤環氏は、いじめ被害者だけはPTSDとして別枠にしている)
  • 既存の関係性には、領土競争の政治しかない。 別の努力が報われる環境づくりが要るが、それ自体がバトルになる。 彼らは、そんなゲームをしたがっていない。――むしろ、「どのゲームをするか」こそが闘争の焦点。
  • 「闘い」という言葉にアレルギーを示す人も、よい話が来ると鼻息を荒げる。 状況音痴であり、取り組むべきディテールも、人を説得できる長期戦略もない。 戦術的ふるまいのできない人は、政治などという言葉をもう口にするべきではない。
  • 苦痛緩和のために設計された概念体系が、苦痛構造に加担している場合がある・・・。 概念は、こちらの為すべき仕事を決めている。




*1:以下の引用部分において、改行や強調は引用者が適宜おこなった。

*2:立木氏は、邦訳のあるラカンフロイトの文献も、注ではすべて原典で挙げている。

*3:努力すればするほど、それが自滅のかたちをしてしまう。 そういう努力スタイルしか知らない。

*4:中身を充填しようにも、それは原理的に失われている。

*5:「意味を詰める」ことは、身体的には「息を詰める」に重なる。 この路線に希望はない。

*6:「穴」ではなく「孔」と書いたのは、トポロジー的に理解するためだ。 晩年のラカントポロジー遊びに惑溺したいきさつとは別に、禁止を《孔》と理解する自己管理の作法は、私に絶大な効果をもった。

*7:私の斎藤環氏への反論は、このモチーフに尽きている。

*8:political correctness」、政治的正しさ(参照

*9:ひきこもりとは別の、無意味の回避

*10:メタでしかない PC(political correctness)への固着は、いじめや差別を止められない嗜癖的心性と、同じ形をしている。 表向きの「良心的知識人」がプライベートでスキャンダルを抱えるのは、矛盾というより、同じ嗜癖の露呈にあたる。