最近ようやく気付くようになったが、
20世紀のフランス思想は、《当事者発言》の推奨と、そのための原理的整備を延々とやっていたのではないか?
ざっと思いつくだけでも、
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- ドゥルーズがフーコーについて整理した、「他人に代わって語るのは下劣だ」
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- 運動が全体化することに対する、運動当事者による分析としての「n−1」
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- 精神分析を受けようとする人を、患者やクライアントではなく「分析主体 analysand」と呼んだラカン
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- 『彼自身によるロラン・バルト【新装版】』にある、「この本は、小説の登場人物によって告げられたもの」という但し書き。 ベタな自分語りへの抵抗それ自体が、思想上の立場表明になっている。
*1:『精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題』p.232
*2:『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』p.371 より: 「分析家の欲望は純粋な欲望ではありません。分析家の欲望は絶対的差異を得ようとする欲望です。絶対的差異というのは、主体が原初的シニフィアンに直面して、それに従属する位置に初めてやってくるとき、そのときに介入する差異です。ここにおいてのみ、限界のない愛というものの意味内容(signification)が浮かび上がります。なぜなら、その愛は法の限界の外にあり、そのような外部においてだけ生きることができるからです。」 ここでも為すべき仕事は、与えられた《法》との関係に置かれている。
*3:『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p.186等を参照