欲望を抱いた時点で、すでに選択は終わっている。

《当事者の話を聞きたい》――それがすでに間違っているかもしれない。 《良心的欲望》のかたちにおいて、すでに臨床的選択は終わっている*1

真剣に思いつめたスタイルは、本人の最も大事なナルシシズムを構成している。 「それが間違っている」と言われると、多くの人は激怒する。 解決しようとする姿が問題の一部であるという指摘は、悪魔のささやきのように迎えられる。


間違ったまま反省されない当事者論が、無意識的なフレームを形づくる。 「これで問題に取り組んだことになる」というアリバイだけが再生産される*2

「抜本的改革」が叫ばれるが、それを叫べば取り組んだことになってしまう政治家や支持者の思い込みは見直されない。 本当の問題構造は、関係者のナルシシズムと同じフレームをもつ。 そこに「ひきこもり当事者」も加担している。



*1:親御さん、支援者、研究者、それに「話したい」という “当事者” 本人も、この欲望構造に加担する。 全員が、依存的フレームの再生産に加担している。 そのフレームが、全員の「正当性」の資源になっている。

*2:「そんな形でチャンスを与えてはいけない」かもしれない。 社会的行為のフレームこそが、再設計されなければ。 持続される関係性は、何を反復しているか。