「当事者発言 vs メタ言説」という括りの貧しさ

 ここ十数年、僕の考えだと1995年以降、論壇の社会学化と心理学化が急速に進みました。その結果、政治について語ることが、当事者性を強調した単純な言葉で埋め尽くされている。二言目には具体的な実効性を、と問われてしまう。
 しかし、政治とは、そもそも社会を共同で運営していく行為一般のことのはずです。そのためには、本来はもっと抽象的な言葉、思弁的な言葉で考えてもいいはずです。僕としては、そういう場を取り戻したい。 (『NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本』p.7、東浩紀氏の冒頭発言)

当事者言説と、抽象的な言説がきれいに切り分けられている。
これが事態をさらに悪化させる。


抽象言説はそれとして一つの生産態勢であり、オブジェクト・レベルで生きられる集団的な当事者性がある*1。 それを無視した「メタ言説の特権化」は、いわば「自分には無意識的関係性などない」と主張することであり、分析への許しがたい抑圧となる。
一方いわゆる「当事者発言」においても、《関係性と、それに順応できる主観性》の設計は終わっている。 ベタな当事者性の標榜は、不可侵のメタ・フレームを固定する。

  • つまりここには、以下の二つしかない。
    • 自分のメタ性にベタに居直るメタ言説
    • 役割のメタフレームを固定した当事者言説



現状の知識人は、ほぼ全てが「メタ言説で実現されたナルシシズム」を目指すため*2、読めば読むほどナルシシズムがひどくなる。
コスプレ的に役割を固定された “当事者” は媒介なしにナルシシズムを実現し、知識人はメタ言説の労苦を通じてナルシシズムに到達する。 いずれもナルシシズムを目指しているだけで、自分たちが生きてしまっている主観性や関係作法そのものはいつまでたっても問い直されない*3


すでに生きられたパターンを問う、その意味での当事者性を抑圧した言説*4が、さまざまな苦痛の温床になっている。 現状への批評的総括を行なう者が、「メタ vs 当事者」という貧しい構図に還元できないような地殻変動が要る。



*1:彼らは、そのような言説生産のあり方を選択し、そこで関係性を営んでいる。 メタ言説のパターンを踏襲しなければ入っていけないのだから、その態勢は規範として機能している

*2:NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評』掲載の菅原琢(すがわら・たく)氏の論考は、例外的な分析になっている(参照)。

*3:《役割=結果物》としてのナルシシズム【当事者】 と、メタ言説の内側に自分を監禁した言説【理論】 が共犯関係にある。

*4:いわゆる「当事者発言」も、役割フレームはメタに固定され、発言の生産態勢が固定されている。これは、最悪のナルシシズムのフレームになる。