社会参加の臨床と批評

ueyamakzk2010-07-08

美術手帖2001年2月号(第800号)掲載の以下を通読。

作品をつくること、それが社会的にどう評価されるかをめぐる議論だが、ほぼそのまま「人の社会参加」をめぐる論争と読めた。

晩年のフーコーが自己を「作品」として描いたが、あれは作家的情念が云々ではなく、唯物論的考察のそっけない前提確認だと思う。 人が自覚的に努力して人にかかわりお金を稼ぎ、自分を正当化するなら、それが《作品制作》やマーケット、作品批評とモチーフを共有しないわけがない。


村上隆氏はファッション・ビジネスに触れ、ナイーブな作家性の発露と見えるブランド・デザインが徹底したマネジメントの支配下にあること、商品として生き残りを強いられる環境にあることを語る。 理念的正義に居直るだけの人より、はるかに冷徹な状況分析がある。


いっぽう岡崎乾二郎氏は、現代美術とは関係ないように見える《礼楽》から語り始め、人と集団が自分をマネジメントするあり方を論じる。 私はここに、主観と集団をめぐる制作の技法論を読み取り、「これこそが引きこもり支援に必要な議論だ」と感じた。
以下、岡崎氏の発言より(強調は引用者)。 ここでは美術批評というより、「個人的・集団的な自己管理をめぐる批評」として読んでいる。

 礼楽というのは “礼儀” の「礼」と “音楽” の「楽」、古代中国で礼義と音楽すなわち礼楽が、人の心を治め社会をうまくまとめる働きをもつ重要な規範として、刑政つまり法と刑罰と同等かそれ以上に重んじられ、人が従うべき道として定められていたとされるところのものです。 日常的な祭祀祭礼も礼楽のうちですが、面白いのは礼楽というものがけっして信仰によるものではなく、だれでももつであろう不可知な対象に対する脅え――最たるものは死後の世界というものですが――あるいは不安を押さえる働きとして定められたということです。 (p.168)

 〔萩生徂徠は、〕この不可知さ、つまりは人の知の限界をどう扱うかが問題だと考えた。 その方法が礼楽であり、道と呼ばれるものでした。 人知の及ばぬ鬼神があると定めたほうが人びとの心も世の中も効率よく治まる。
 これは日本だけの話ではありません。 啓蒙主義の時代というのは世界的に同じような問題が発生してきている。 (略) ここで発見されたのは、容易に一元化できない不均質な世界です。 さまざまな異なる世界があることも、人がそれぞれ自分自身でどうしようもない理性で制御しきれない部分――それこそ鬼神ですが――を抱えていることも発見された。 そして当然のようにそこで問題になったのは、こうした不均質な世界を効率よく、いわば合理的にどう扱うかということですね。 いちいち納得のいくまで調べていたらやってられない。 知の限界をどう定め、どう扱うか、その方法といってもいいでしょう。たとえば目的なき合目的性という言葉があります。 これはカントがそもそもは自然に対して適用した概念ですが、僕なりに翻案すれば、その与えられた対象を、それ以上「何故」とか「なんのために」とか問わず、そのようなモノとして、むしろ、それ自体完結したもの、むしろ規範として扱えということですね。 つまりは知の無制限な拡張をそこで止める。 それ以上進むと自己解体してしまう限界です。 当然この目的なき合目的性として扱わなければならない最たるものは、人間自身の存在ですが、重要なのは、芸術という奇妙な対象に付与された性質こそ目的なき合目的性だったということです。 (p.169)

ここでしている話は、《形式的禁止》に重なる。


 僕は日本と世界を対比させる図式が、そもそもどうも実感できないんです。 ピカチュウを見たスペインの子どもがたくさん、窓から飛び降りたりするというのは日本文化の勝利でもなんでもなくて、世界的に習俗がそういう反応を引き起こしやすくなってきているだけの話じゃないですか。なんで、その現象を日本に帰すのかわからない。だから世界とか、日本を代表してとか、そういう話はわからない。代表することも代表する世界という場もない。世界のいたるところが未開化し、それぞれ閉じてきていると僕は思っています。だから礼楽の問題かな、と主題にしたんですね。 (p.179)



浅田彰氏は、未開化に関連してご自分の論考「子供の資本主義と日本のポストモダニズム*1に触れているが、資本主義の行き着く先は、「スキゾ・キッズ」というお気楽さではなく、

    • 自分をどう社会的に処理していいか分からず硬直する
    • 至近距離の関係性で暴君的に居直る

のいずれか(というより同一人物における両立)に思える。
主観にも集団にも新しい方法論がないまま「未開化し、閉じてきている」とは、世界じゅうが引きこもる以外の方法論を持たないということだ。


資本主義がダメなら、左翼には何かあるか? 今のところない。 左翼は、硬直した政治イデオロギーを連呼するだけで、身近な関係性そのものに含まれる困難*2を主題化することに失敗している(「オルグ」はあるが、関係の持続を主題化できていない)。

岡崎氏の示した分析には、政治イデオロギーを連呼するのとはぜんぜん別の、しかし政治的と呼ぶしかないような強度がある。 私がどうしても必要とするのはこうした分析=政治であって、「ひきこもりの全面肯定」とか、病気や障碍のカテゴリー談義しかできないのは、政治性として貧しすぎる。


ひきこもりを専門とする精神科医斎藤環氏は、最新刊『ひきこもりから見た未来』あとがきで、次のように記している*3

 私はそれほど強い政治的主張を持たない人間である。 むしろ本業である精神科臨床医という立場からすれば、強い政治性は治療上の障害になりかねないとも考えている。

斎藤氏は岡崎乾二郎氏の批評を高く評価されているとのことだが(参照)、岡崎氏の発言が持つただならぬ政治性は、「治療上の障害になりかねない」だろうか。


むしろ岡崎氏のような政治性――イデオロギーの固着ではなく、分析そのものが備えざるを得ない強度――こそが、治療的に思える*4。 単なるマーケット戦術しか許されない場所では、治療(=制作過程に介入する批評)が自意識を増幅させ、状態を悪化させる(マッチポンプ)。


社会参加をめぐる自己管理においては、批評だけが治療的に機能し得る要因がある。 だとすれば、まちがった批評しかできない支援者は、はっきり害になる。 そこで論争すべきであって、「本業は精神科医ですけど、副業で評論をやります」などと言っていては、いつまでたっても原理的な議論ができない*5


批評をめぐる論点設計は、臨床の設計に重なっている。


    • 具体案を講じる上では、シャドウ・ワークの位置づけが決定的だと思う。 家事労働が社会的位置づけを得られるなら、閉じこもる男性がそこで “社会復帰” する道があり得るはず。 ▼作品活動では「特異点*6が求められるが、生活の再生産やケア労働では、何の変哲もない日常の反復をどう支えるかが課題になる。 低賃金かつ過酷な単純労働は、心理面で人を破壊しかねない。 しかしいっぽう、生活を支える労働の需要が失われることはない。
    • 私と斎藤環氏の立場の違いを理解するには、カフカ『掟の門』がいちばん分かりやすいと思う(参照)。 斎藤氏は引きこもりを、「門の向こうに出なければならない(しかし逡巡している)」と理解する。 私は引きこもりを、「すでに門の手前という社会に生きてしまっているが、それがなかなかどうにもならない。開放されるべく、門をくぐって(死んでしまって)良いものかどうか」と理解する。 ▼形式的禁止やシャドウワークに注目する私の提案は、《門のこちら側》をめぐる工夫にあたる。




*1:現代思想 臨時増刊号 総特集=日本のポストモダン』(1987年12月)掲載

*2:それを直接話題にしたのが、ドゥルーズによるガタリ論「集団の三つの問題」だった(参照)。

*3:このご発言には、精神科医同士の熾烈な党派争いや、硬直した中傷を続ける左翼党派へのレスポンスという意味もあると思う。

*4:たとえば岡崎氏の行なう制作指導は、どんな精神科医の “治療” より治療的ではないだろうか。 これは、「自己とは制作過程である」と考えれば、当たり前に思える。

*5:精神科医+美術批評」という振る舞いにおいて、私が斎藤環氏より三脇康生氏を選ぶのはこの点だ。 三脇氏においては、批評的論点の設計と臨床趣旨の設計は、完全に重なっている。 芸術活動にコンセプトがあるように、臨床活動に「コンセプト」を語っていると言える。 ▼とはいえ、至近距離の臨床設計だけでは、長期的批評を見失う。 また《批評=臨床》も、作品実作者と同じく、マーケットに晒される。

*6:今回取り上げた座談会《原宿フラット》で、キーワードの一つ