ひきこもり――人生論と学問の解離

最終回を読み、あらためて落ち込んだ。
ひきこもり問題が人口に膾炙して10年たつのに、論じ手や引きこもる本人の情念を押しつける議論にしかなっていない。

高年齢化で最も懸念されるのは貧困なのに、「グルメのせいで脂肪肝になった」、「千年以上も家系をたどれる旧家の長男」をわざわざクローズアップする理由は何か。 2000年頃マスコミによく登場したゴローさん*1の二の舞ではないか。 これでは、「恵まれた層の実存問題」にしか見えない*2

ひきこもりを考えるには、精神医学や心理学で良いのか。あるいは政策論や労働論とも別の議論が必要なのか。いきなり引きこもりを考えようとする前に、自分がどういう論点設計に加担しているかに検証が必要だ。

    • このエントリーでは、杉山氏の連載を題材に、ひきこもり論にありがちな言説傾向を主題化している。 杉山氏は、ひきこもる本人の痛みに寄り添い、攻撃的な他者の目線を内面化してしまういきさつを描こうとされているし、「自分はクズだ」という、本人が苦しみがちな自意識についても、「まるごとの命を受け入れる」という案を示しておられる。――こうしたお考えは、ひきこもり問題を引き受けようとするかたには見られがちで、積極的に機能する場面も間違いなくある。 しかしその限界が、いまだほとんど議論されていない。 生命尊重や「見守る」目線は、思いのほか抑圧的なのだ。


社会参加の実態をあつかう引きこもり論には、他のどんなジャンルにも増して、批評的・方法的な彫琢が必要だ。ところが関連書のほとんどは、批評を拒否する湿っぽい人生論と、外的観察のディシプリンに終始する学問言説で占められている*3。 これが状況をますます悪化させる。

あるライターによれば、商業誌で仕事をする人には、プロとしてのプライドがあるという*4。 しかし商業誌向けの作法は、ひきこもり論では甘えや居直りになりかねない。 医師や学者もそうだが、その業界で承認された作法は、ひきこもりを考える上では問題の所在そのものにあたる。 この問題構造をみずから引き受けられない人は、ひきこもりを論じるべきではない。


社会参加に成功した人は、ひきこもりを論じようとした瞬間にご自分の正当化スタイルを全開にする。 ひきこもる本人やご家族もそこに迎合してしまう――この状況の全体に改善が必要だが、それは自分の誠実さ(=社会化のありかた)そのものへの問い直しを要求するため、心理的にも社会的にも激しい抵抗を生む*5

妥協するうち、パターン化した問題意識が反復され、苦痛が温存される。 自分で状況を悪化させながら、受容的であれば「考えた」ことになると思い込む人たち。 ひきこもりを考える素振りだけ反復し、しかし本当の問題はいつまでたっても考えない(「何を考えるべきか」こそが焦点なのに)*6。 自分の態度が問題構造の一部という理解は拒絶し、今日も同じ「議論の作法」が支配する*7


固着した主観性と、それが社会化される集団のあり方を同時に扱う引きこもり論がない*8。 これは今回の論者に限ったことではないし、学者や知識人にも、そうした論点はまったく見られない。――この言論状況そのものが「病んでいる」*9



安易な専門性に居直ることは、間違いの第一歩にあたる。とはいえそれは、レベルアップが必要ないということではなく、むしろ適切な専門性を創り上げる要請にあたる。
ひきこもりは、《専門性のあり方》が問い直されるような内的事情をもっている――言論や制度の組み換えが必要だ。 「これは専門性の高い議論とは言えない」という主張を、既存制度に居直るのとは別のかたちで組み上げなければならない*10


本当の意味で苦痛緩和的な仕事がどういうものか、一人ひとりが問われている。



無意識的な居直りを、「形式的な固定」に置き換える

怠慢とは、単なる弛緩ではなく、むしろ硬直だ。
ひきこもりでは、軌道修正を強いる意識が暴走し、硬直を生んでいる。 それゆえここで、意識の臨床を内にふくんだ専門性構築の方法論として、《形式的禁止》が必要になる。
これは、ひきこもる人が苦手な「無意識的な居直り」を、意識的に固定することにあたる。 既存の理論やシステムが理不尽なあれこれを押しつけるなら、ひとまずそれに従わなければ社会参加はできない*11。 しかしかと言って従うだけでは、嗜癖は放置されるし、おかしな状況を改善できない。
間違った作法をひとまず受け入れつつ、しかしその服従は《形式的》であって、距離があること*12。 それは、世俗を馬鹿にしてメタに居直ることではなく(それも嗜癖のひとつの姿だ)、居直りをつねに対象化し、改善に準備することだ。



苦痛緩和的であるには、政治的であらざるを得ない

批判的趣旨をふくむ本エントリーを敢行するかどうかで、ずいぶん迷った。
「ほんとうのこと」を指摘しても何も変わらず、怒りを買って排除されるだけなら*13、黙ってやり過ごしたほうがいい。 しかしそれでは、苦痛の根源事情が何も変わらない。
問題のある状況や議論に無自覚的に居直れる人が、社会参加に成功している。 現状に疑問があるなら、何らかの形でおのれを政治化し、状況そのものを変えていかざるを得ない。
「社会復帰しなければならない」というより、「これが許せない」を追求していくところにおのずと復帰の道筋がある。 (憂鬱な話ではあるが、ワクワクする要素も含むはず。)



対立構図の設計に、すでに政治が含まれる

本ブログでは、伝わりにくい論点をくり返し扱うことがあるが、これもその一つにあたる。

知識人の領域では、サブカル・オタク系とハイカルチャー系が対比されるが、これは偽の対立だ。 なぜなら、どちらもベタな居直りにすぎないから。 オタク文化に引きこもっていた人が難解な政治談義を始めたところで、意識は引きこもったままだ(現にそういう人はたくさん居る)。

ハイカルチャーであれオタク/サブカルであれ、それ自体としては居直りにすぎない。 そもそも人は、自覚的な分類とは別に、すでに一種の宗教的耽溺を生きている(参照)。 そこで必要なのは、自分の生きるポジション取りに「形式的服従」を維持し、風通しを作ること。 つまり、無意識的惑溺に批評的距離があるかどうかが真の対立であって、ハイカルチャーであれば(あるいはオタク的であれば)許される、という話ではない*14



同じことが、対人支援にも言える。 「一方にはベタな情念論があり、もう一方には感情を排した学問がある」とされている。 しかし、この対立は偽物だ。 情念言説はそれそのものがきわめて制度化された社会性であり、いっぽう学問言説は、それに取り組む人たちの私的情念に満ち、医者や学者の都合が、問題の実態よりも優先されることがある。
本当に必要なのは、学問や情念の制度的文脈を再帰化し、論じる自分が何に従っているかに自覚的になることだ。――そしてこういう作業こそが、ひきこもる当人に欠けている。
ひきこもる人は、思考が制度的に硬直している。 それを批判する側がまた「甘えだ」「かわいそう」云々のパターンを反復するだけでは、いつまでたっても問題の核心を論じられない。



*1:出演当時「30代後半」で「24年間ひきこもって」おり、渋谷の豪邸に在住

*2:集団生活や親族内のイザコザはどこにでもあるから、それを話して同情を求めたところで「みんな我慢してる」で終わる。

*3:日本語でなされた引きこもり論にはなるだけ目を通すようにしているが、ウンザリするほどどれも似通っている。

*4:「ブログは原稿料も出ないアマチュアだけど、こっちはプロだから」。

*5:チャレンジしても、「週刊誌の記事にはふさわしくない」「そんなものは○○学ではない」等と判断される――そういう《問題意識の制度》それ自体が問題の焦点だ

*6:この指摘は、私自身に跳ね返る。 問題意識にメタなポジション取りが許されないのは、本当に厳しい要請だが、苦痛の実態ゆえこの問い詰めは避けられない。 ひきこもり問題の構造は、そういうふうに考えざるを得ないところに論者を追い詰める。

*7:リベラル派の知識人だけでなく、ひきこもる本人がまさにこういう状態にある。

*8:私が理解できた範囲では、それはフランスの精神医療運動がすでに取り組み、ジャン・ウリやフェリックス・ガタリが主題化している(参照)。 ところが日本の知識人はこれを無視した。 《党派性=中間集団》の主題化は、ロールズ系の正義論にも見当たらない。

*9:ひきこもり論が低いレベルにとどまっていること、頻発するトラブルがいつまでたっても水面下に隠されたままであることは、それ自体が《ひきこもり》の状況そのものと言える。

*10:ひきこもりを考えるのに、押さえなければならない論点の整理が要る。既存学問だけで良いと考える人たちには、落第点を出すべきだろう。

*11:たとえば受験競争はバカバカしいが、制度を否定して自分だけメタに温存しても、自分一人が追い詰められる。

*12:距離を失えば、単なる狂信や嗜癖になる。

*13:連載最終回の載った「7月9日号」別ページには、賭博事件に関連して、相撲協会と裏社会の関係が論じられている。 これがすべて事実ではないにしても、既存の《社会性》は、こうした暗黙のあれこれに合流できることに見える。

*14:似た構図は、「東京vs地方」にもあるかもしれない。 ナチュラルな方言で当事者的情念を語れば許されるのではないし、標準語でメタ言説をすれば許されるわけでもない。 ベタなメタも、ベタなだけのローカリティも、関係性の作法としてしんどすぎる。