【参照】: 《対格》について

中山元レヴィナスにおける哲学と宗教」より:

 レヴィナスはこの事態を accusatif という表現で示す。 accusatif とは、対格という文法用語であるが、この用語でレヴィナス主体の受動性を強調しようとしているのである。 これをコギトという動詞形との対比で考えてみよう。 コギト cogito という語は、考える cogitare という動詞の原型の直接法現在一人称単数形を示す。 コギトという概念には、「わたしという主体=主語が考える」という意味を含んでいる。 ここでは「わたし」は主格で示され、思惟する主体であることを示している。

 しかしレヴィナスは、人間のありかたを顕著に示しているのは、神に呼ばれた時にアブラハムが答えた「わたしはここにおります」 me voici という表現だと考える。 呼ぶのは他者(神)であり、それに対して主体が答えるのである。 この主体は主格ではなく、対格 accusatif で示される。

 accusatif という語は、accuser(告発する)という動詞から派生した語であり、主体はここでは告発された客体として登場する。 レヴィナスにとっては、主体は思惟する主格ではなく、告発され、非難され、責任を負わされる客体として登場するのである。 しかもいかなる過ちを犯したわけではないのに、告発される客体であり、責任を負う主体として。

ひきうける、という能力自体が与えられたもの。
それがある形に固着するのではなく。

    • 「他者を尊重しなければならない」みたいな説教として聞いている限り、レヴィナスは面白くもなんともない。 むしろ最高度の活性化を準備する議論として読めないか?