『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』p.12 より:
彼(ガタリ)は、いまなら、超行動的な子どもに与えるレタリンのような薬を要するタイプだった。
原文はみていないが、ここで「超行動的」とあるのは多動性(hyper-active)、「レタリン」とあるのは多動性障碍に使われるリタリン(Ritalin)のことだと思う*1。
1年もかかった(訳者あとがき)という翻訳の難しさを想像すれば、誤訳があるのは当然だと思うけれど、この箇所から透けて見えるのは、邦訳者にも編集者にも臨床系の素養がなく、そういうチェックをする体制もないらしいということ。
本書の訳者は、精神科病院を出自とするガタリの著作をたくさん訳しておられる。 それでこういう状態ということは、現代思想系の周辺は、臨床系と完全に乖離しているのだろう。
本書には、ガタリの用語である「transversalité」が「横断性」と訳されて頻出するが、ガタリ周辺の翻訳文化がこういう状態ということは、この《横断性》には古臭い「オルグ」しか感じられない。 連携の条件となる内在的考察が臨床趣旨の内側から語られることもないし、繋がりなんか生まれるはずもないところに無理やりイデオロギーで連帯させられる左翼的暴力ではないのか――という危惧がぬぐい去れない。
こういう支援文化しかあり得ないなら、ひきこもる人が社会復帰するとは、「家族機能を持つ党派に抱き込まれる」以外ないと思える。 私はそういう《社会性》の文脈に抵抗したいのだ(規範的にばかりでなく、インフラ的条件まで含めて)。