「別の主体化」という政治的臨床論

アンチ・オイディプスの使用マニュアル

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わかりにくいところも同意しづらいところもあるが、自分にはこういう議論が必要なのだと確認した*1
本書の焦点は、私たちの強いられる個体生産的な主体化に対して、「別の主体の様式があり得る」ということだが、著者のステファヌ・ナドー氏*2自身はこの「別の様式」について、あまり積極的なことは言っていない。 むしろ本書は、その積極性のなさを確認する痛みに満ちた作業に見える。


三島由紀夫のノスタルジーと自殺を論じ、「行動の瞬間には、全面的な忘却が必要となる」(p.170)とするナドー氏は、ご自分の父親との思い出まで取り上げながら、「積極的な忘却」の必要を語る。 忘却できない者は、過去に対する老いのノスタルジーに若者を利用する(p.172)。 いわばナドー氏は、『天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)』末尾の「寂寞を極める夏のお庭」を出発点に、主体化のプロセスを唯物論的に(歴史性を無視しないで、集団的・政治的に)扱おうとしている。


この決着には、浅田彰が『構造と力―記号論を超えて』末尾で描いたカラカラの砂漠、「スキゾ・キッズのプレイグラウンド」を思い出す。 そして私自身は、これだけでは耐えられない*3
本当に必要なのは、忘却と行動への勧めではなく*4、当事者的な分節が状況に内在し、そのプロセスがまた誰かの触媒として機能するような唯物論的影響関係なのだが、それはまさに、無意味への処方箋にあたる。


ナドー氏は、時系列的に承認された自分の足場を掘り崩してまで到達すべき「時間の外」を強調し*5、それは私たちの「武器になる」という(p.243)。
といっても、そこで勝つことが問題なのではなく、「相手を再検討することで変化させ、自分も再検討を経験する」(p.300)――そう語るナドー氏は、分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzer)と語っていたガタリに、単に運動家としてではなく、臨床家としても近づいていると感じる。 もしこの読みが間違っていないなら、私はここに本当に希望を感じる。

    • 【追記】: 逆にいうと、《触媒》をめぐる扱いがよく分からないままなのが気になった。 本書 p.109-110 には「触媒」という言葉が出てくるが、これは「個体生産的な主体の再領土化の触媒」であり、私が強調するのとは真逆の意味にあたる。 開かれた臨床に必要なのは、分析をもたらす触媒への尊重であり、そこでもたらされた分析がまた新たな触媒として機能するようなあり方*6。 これに対し、順応主義的な臨床(悪しき党派主義)は、むしろこうした触媒を抹殺する方向で機能する(まさに領土化のために――それは最悪の意味で左翼的だ)。 《触媒》をめぐるこの立場の相違は、思想上の立場を決定的に分ける。 つまり思想は、触媒をめぐる《つながりの作法》に表れる。
    • 考えてみればこの《触媒》論は、そのまま排除論になっている。 反差別を標榜する左翼まで含め、コミュニティは人をカテゴリーに還元する差別をやめず、独自の《触媒》になりかかった人に罪を押し着せて粛清する。 触媒になろうとすることは、危険極まりないチャレンジにあたる(どの陣地からも、部外者として扱われるのだ)。



この本にはまた触れてみるつもりだけれど、以下で少しだけメモ。



主体化のプロセス

アンチ・オイディプスの使用マニュアル』より引用(強調は引用者)

 主体化という問題に、いまわれわれは少し足を止めてみたいと思う。 これはこのような主体の創造プロセス、主体性の作成プロセスである(*)。 いいかえれば、主体の生産過程だ。 ここでは生産はもっとも一般的な意味で、この語のもっとも簡単な意味で理解されるべきものである。 芸術作品の生産、一切れの生地の生産・・・といったように。 しかし、われわれが携わっているケースでは、こうして作成された産物は一つの主体である。(p.84-5)
該当箇所の原文:「La subjectivation (...) est ce processus de création du sujet, de fabrication de subjectivité. Autrement dit, le processus de production du sujet : production est ici à entendre au sens le plus courant et le plus simple du mot, comme on produit une œuvre d’art, un carré de tissu... Mais dans le cas qui nous intéresses, le produit ainsi fabriqué est un sujet.」(原書、p.68)

  • (*)の箇所に付された原注(p.307)より:
    • 主体化 subjectivation は、とくにフェリックス・ガタリから援用した造語である*7。 この語は主体性 subjectivité (ラルースによれば「『思考する存在』と定義される主体に属するもの」)をもとにしている。 あるいは主観化 subjectivisation の方を使ってもよかったかもしれない。 しかし、後者の方は潜在的には主観主義という哲学理論(存在するすべてのものは、主体、つまりそれを思考する意識が与えたもの以外の現実性を持たない、と説明する相対主義的理論)に依拠している。 さて、ここでわたしが話しているプロセスは、その目的を主体を生産することとしているわけであるから、相対主義的なものではないし、現実にこの主体を生産しているのである。 こうしたわけで、わたしは主体化という概念を好んでいる。 

 わたしが「主体化のプロセス」(ないし「主体性の生産過程」)と名付けたものは、したがってすでに見てきたように、ひとまとまりの全体 un tout として、分割不可能な統一体として「生きている」、つまり自分を感じ自分を理解する、という事態である。 要するに、統一化されたひとまとまりの全体として、組織化された有機体として、ということだ。 この経験のなかでは、明らかに身体が中心的な地位を占めている。 われわれが身体と呼ぶものが、ちょうどこの外観をくるむもの(それは身体的なもの―― 一般的な身体的境界線、とくに皮膚のこと――であると同時に心的なものでもある。 統合する身体であると同時に、内的感覚や固有受容のような感覚されたものでもある)に過ぎないから、という事情もあるのではあろうが。いいかえれば、主体化のプロセスとは、主体生産機械であり、このとき「主体」とは組織化された有機体、ひとまとまりに統合されたもの、分割不可能なまとまりに与えられた名前である。
 しかし、わたしが主体化のプロセスについて取り上げる問題はまさしく、この有機体、まとまり、ないしひとまとまりのものに対して押しつけられる――あるいは人が押しつける――境界線という問題である。 (p.88-9)

 資本主義は経済的なものである以前になによりもまず、(絶えず脱個体化と再個体化をおこなう)主体化機械となるシステムだ (p.104)



私たちの反復する意識的努力は、集団的な影響関係のさなかにある。
主体化は、あるスタイルをいつの間にか生きてしまっている。 それが自分を監禁するような硬直を生きているとしたら、どういう「別の主体化」があり得るか。――これはそのまま、ひきこもりの臨床論だと思うのだ。
こういう議論を無視して、どんな引きこもり論があり得るのか。

    • 【4月29日 追記】: 「精神科医ドゥルーズ/ガタリを論じる」という本なのに、本書にはただの一箇所もラボルド病院(ガタリが死ぬまで勤務した)の名が出てこない。 これは…?


*1:私が社会学や心理学に怒りを持つのは、「内在平面を公理領域に引き下ろす」(p.296-7)というあたりのことだ。

*2:Stéphane Nadaud、1969年生の児童精神科医同性婚の両親家庭に関する研究書Homoparentalité : une nouvelle chance pour la famille ?著者。 最近ではガタリ本の編集など(参照)。

*3:たとえば引きこもりを、「ニヒリズムに負けること」と描くことも可能かもしれない。 「意味がない」という強烈な感覚は、意識を極端に委縮させる。 と同時に、無意味は自由の根拠でもある。 「意味がある」なら、その意味に従って生きなければならなくなる。

*4:それは粗暴な決断主義でしかない

*5:これは宇野邦一氏のいう「クロノス/アイオン」(参照)の話だろうか? だとすれば、それは「別の時間軸で生きられる主体プロセス」の話であり、積極的な主体論のはずだ。

*6:そのようなあり方を集団的に実現することが、取り組む本人にとっての恩恵にもなる。

*7:【上山注】: De la production de subjectivité」(PDF)というガタリの文章がある。 これは邦訳では『分裂分析的地図作成法』冒頭にあって、「主体性の生産」と訳されている。