最近は、可処分時間をできるだけ読書と語学にあてています。


  • 生活者としての批評意識のなさが臨床的苦痛に直結している。 リアルタイムに生きる批評意識の涵養が必要。 「○○学」は参照項でしかない*1
  • 特権化する当事者枠より、状況内での当事者能力が求められる。 ひきこもり経験者には当事者能力がない。 しかし順応者は、自分の当事者性*2を抑圧しているだけだったりする。 「なかったことにする」のがウマい人たちが元気にしている。
  • 焦点は、「ひきこもり枠による特権化」ではなく、どんなポジションにも問われる当事者性。 私自身が勘違いしていた*3
  • 「ひきこもり当事者」枠で求められる発言では、当事者論を批評的に検証することを禁じられる*4。 頑張って論じたところでどうせカットされる。 支援者や取材者は、非常に悪質な情報の編集者であり得る。
  • 集団的なプロセスとして反復される正当化のスタイルが、《つながりの作法》。 そこでは政治性と臨床性が濃厚にリンクする。 彼らの要求するつながりの作法に、私は激怒している。 しかしそれだけでは孤立してしまう。 この説得は、ものすごく時間のかかる政治活動。
  • 人が残るというよりも、つながりの作法が存続する。




*1:それを実存維持のフレームにすることは、優等生ごっこ。 必要な分析を排除する。 ▼「○○学に馴染んでいること」は、いじめや差別の免罪符ではない。

*2:弱者性ではなく、その場で担う関係責任

*3:エスノメソドロジー(EM)には、「本人の当事者性を暴きだすツール」であることを期待したが、EM もむしろ当事者性を忘却するツールでしかなかった。 端的に失敗した。 【4月15日追記】: 酒井泰斗氏(id:contractio)がエスノメソドロジーについて説明くださったやり取り(参照)は、酒井氏としては誠実に対応くださったのだと思います。 しかし今の時点では、私がどうしても必要とする内在的な(つまり当事者的な)議論が、エスノメソドロジーから出てくるとは思えません。 それが自らの限界を知っているだけならともかく、むしろ内在的な議論の必要を抑圧するなら、やはり私には容認できません。

*4:適切な当事者論が臨床上ぜったいに必要。 当事者論にかんする批評意識の禁圧は、許しがたい。