配慮の中身

酒井泰斗(id:contractio)氏の発言より:

    • 社会的排除という概念は要らない」(参照
    • 「逸脱論というフレームにはまったく依拠していない」(参照

社会的排除」「逸脱論」というフレームで研究中のアカデミシャンもおられるので、これだけで大きな論争テーマなのだと思います。

ひきこもりに関する議論は、「その発言は、こう理解されてしまう」という文脈配慮がないと、あっという間に火だるまになりますが*1、同じことが学問領域でもあるのだと思います。 それぞれの議論は、独自の課題と配慮をもっているので、別文脈にある議論がいきなり交わろうとすると、お互いに明後日の方向を向いてしまう――そして厄介なことに、文脈に配慮することそれ自体は、ほとんど生産的になりません。

 研究の方法論が前提にしてしまった《主観性の方針》をテーマにする

という私の提案は、単に「ひきこもり」に留まらない射程を持つし、またそうでなければ引きこもりそのものにも有益ではないと思います。 というか、「○○に取り組んでいる」ことは、その問題への貢献を保証しません(単にその人のアリバイづくりかもしれない)*2

「その問題のどこにどう着眼するか」で、立場の選択は終わっているように思います。




*1:拙ブログの執筆が1本に何十時間もかかっていたり、あるいは斎藤環氏のひきこもり関連発言が過剰に防衛的に見えたりするのは、文脈配慮が異常に肥大しているからという面があります。

*2:弱者支援をアリバイにする左翼系論者が、必ずしもその問題に貢献しているわけではないように。