「対象の居直り」と「記述の居直り」が、相互に権威性を昂進しあう――のではなく!!

既存の当事者論は、「私のことは私が一番よくわかる」(参照)、「家族や専門家ではなく本人が」など、関係性に一人称を導入するモチーフとして展開されています*1。 ところが、一人称同士の関係をどうするかについては、驚くほど方法論がない。


酒井さんが、エスノメソドロジーの利点を語られていて、非常に気になるのですが、私の趣旨との関係を掴みかねている箇所(強調は引用者)

 「自己の活動への反省」は、自食的・自家中毒的な試みとなることが多く、その多くは (略) 実質的には研究活動のあり方を変えていくことには ほどんど役にたたない場合が多いように思われます。 (略) そうしたやり方と比べてみると、

    • たとえば、上で、「対象の側で行われている活動」と「それを対象化する(専門家などの)アクターが行う活動」を、「(再)記述」に焦点をあてることによって、同じ資格で比較(することを提案)してみたように、そうしたやり方の延長線上において、

 「対象の分析」と「自己分析」が、相互に分析能力を昂進しあう関係を保つような仕方で「(研究の)自己反省」をおこなうという方針は、 (略) そうした自食的な在り方に対する代替案でありうるように、私には思われます。 (「論点3」)



ここで思い出したいのは、5年前の貴戸理恵氏のケースです*2
彼女は社会学者としてメタ言説を演じながら、調査対象者の一人に《自分》を繰りこみ、かつそのことを論文内で明示しませんでした。


以下、当時の私のエントリー(参照)より:

 『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』に登場する当事者の一人である「Nさん」は、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』を参照すれば、貴戸理恵氏本人であることが明らかである。ここでは、≪ニーズの主体≫としての貴戸氏と、≪主張の主体(論文執筆者)≫としての貴戸氏が、手続き上ショートしている。「当事者の声」を取材すべき貴戸氏が、「自分自身」を取材対象の一つにし、主張を形成している。これは、既存の論文作法上疑問視されると思われるが、逆に言えば、「当事者による当事者研究」の一環として、「自分の経験を動因とし、自分自身を分析の対象にする」という作業の可能性にあえて打って出たものであり、≪当事者学≫という立場からの「調査倫理」上の挑戦とも考えられる。貴戸氏ご本人にこの点を確認したところ、「Nさん」が貴戸氏ご本人であるかどうかについての明言は避け、「この点については、これから時間をかけて自分で取り組んでゆきたい」とのこと。 (略)
 貴戸氏の論文の「調査倫理」において真に問題とすべきなのは、「東京シューレとの関係」ではなく、むしろ「自分自身との関係」ではないだろうか。逆に言えば、期待されるべき可能性の焦点もそこにあるように思われる。



貴戸氏の場合、「研究対象が自分になっている」という意味では当事者的ですが、
《記述する》という振る舞いそのものについては、当事者的(=自己反省的)な問題意識は感じません。 ベタなメタ目線から、単に自分を対象化している。 つまり、《学者が語っている》というメタな居直りが、《当事者が語っている》というベタな居直りとショートしただけです。 学者なら学問ディシプリンの権威だけだが、「実は当事者でもある」としたら、《学問+当事者性》で無敵の権威性を手に入れることができる、と。
ここでは、学問という制度そのものの当事者性も、カテゴリーで「当事者」を身に帯びることの当事者性も、検証されません。 ベタに学問のメタ性が肯定され、カテゴリー当事者であることの「反論できない権威性」が肯定されているだけです。

    • 学者であれば論理的・実証的な批判に開かれていますが、《当事者が語っている》となると、それすら排除される危険があります。 たとえば「べてるの家」では「当事者研究」「幻覚&妄想大会」など、患者さんが自分の問題を語る試みがなされていますが、これは「当事者が語るから素晴らしい」というイデオロギーで終わらせるべきではなく、その有効性や危険性について、まさに実証的・方法論的に検証しなければならないはずです。 (もちろん同じことが、私の提案についても言えます。)




*1:大屋雄裕を参照して言えば、それは関係性に新しく政治を導入することです。

*2:読者からの無用な詮索を避けるために記しますが、今の私は貴戸氏や「東京シューレ」との間で、明示的なトラブルを抱えているわけではありません。