各人の当事者性を抑圧する当事者論

 目下のところ「上山さんの問題」はまったく判明ではない、という評価とともに──そして、それをもっと明らかにすることに 私も少しは協力ができるのではないか、という期待の表明とともに──提示したものでもあります。
 にもかかわらず「ポジション」やら「動機づけ」の詮索をし始めるのは下策もいいところです。そんなことをする前に、まず「論じるべき事柄は何であるのか」を明らかにすべきでしょう。 (「c.それが隠すもの」)



調査・支援・本人の自己省察、それにプライベートな関係性や社会政策など、
さまざまな場面で、見えない当事者論が秩序化の方針を決めています。


概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』p.99〜p.129 掲載の 喜多加実代 《触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」》 には、

      • 「不起訴処分となった患者は明らかに病状も悪化する」

という、臨床上の効果にまで言及した荘司実香の記述*1が引用されています(p.116)。 これは《処遇》をめぐる当事者論ですが、私は、記述するという行為そのものが抑圧する当事者性(記述する行為ですら帯びてしまう当事者性が、どういうスタイルで担われるべきか)を話題にしています。――とこう記してみて、私と酒井さんの齟齬の一端はこれではないか・・・と感じたのですが。


単に「経験的研究」と語る場合(参照)、研究する側の当事者性がどう語られるのか。たとえば引きこもる本人が「ひきこもりを研究する」場合、論じている自分の構成のされ方を棚に上げて「ひきこもりを対象化する」なら、本人がひきこもりで苦しんでいても、《みずからの当事者性》を忘れているし、そこで思い出すべき《当事者性》は、「自分が引きこもっているかどうか」よりも、《自分が反復している構成パターン》の問題です。(結果的な状態像を意識しても、自意識を強めるだけ。構成プロセスをこそ問題化すべき。)


ネットやグーグルは情報編成のスタイルを変えましたが、主観性や対人支援の方法論は旧いままです*2。 また社会政策は、反復される主観や集団のフォーマットを放置したまま決められていきます――そういう局所的フォーマットが、取り組むべき苦痛の機序かもしれないのに。

学問や支援の事業が前提にする間違った当事者論は、各人が引き受けるべき(臨床上の効果すら期待できる)当事者化を、抑圧しています*3。 そこで「秩序を記述する」とのみ語ってしまうと、その記述プロセスがまた(無自覚的なまま)抑圧に加担するかもしれない。そこで私は、当事者化を抑圧しない《別の取り組みスタイル》を探していて、エスノメソドロジーに興味を向けたのでした。



*1:引用元の荘司実香の論文はこちら

*2:情報技術を論じる知識人たちは、なぜか身近な関係性の作法を主題化しません。むしろタブーに見えます。

*3:当事者論は、政治のフォーマットであると同時に、臨床方針をも秩序化しています。