映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」 上映会

HPにあった↓この一文で、神戸大学に観に行った。

 「脱構築とは制度という概念がつねに問題となる制度的実践である」――ジャック・デリダ

そのままジャン・ウリガタリが言いそう。


スタッフ50人を抱える哲学コレージュの年間予算が4200万円ほどで、教員は無償で教えているにもかかわらず赤字であること、また、今回の西山雄二氏の企画が所属先から何の援助も受けておらず、部分的には交通費まで西山氏の自腹になっていることを伺った。 素晴らしいと思う反面、これでは続かないのでは…。


上映終了後にディスカッションがあり、会場から大意つぎのように発言した*1

 「制度を問い直す制度」というコレージュの趣旨だが、ガタリのいたラボルド病院は、それを精神科病院としてやっている。 このような《場所 lieu》は、あらゆる集団や施設に存在するべき。 たとえば学校では、ひとまず保健室がそういう役目を果たしている。 コレージュの活動は、それ自体が臨床活動だと思うが、どう思われますか。

以下、お返事のごく一部より。


松葉祥一氏:

 韓国では、「人文治療学」という試みがある。 フランスには「哲学クリニック」がある。 「哲学カフェ」もそういう役割かもしれない。

西山雄二氏:

 制度は限られた目的と時間をもつ。 それに対してコレージュは、時間の流れ方の違う場所。 映画では「意味ではなくレリーフ relief」という発言があった。 「relief」とは、奥行き・立体感・臨場感というようなこと。

最初に設計された事業システム(つながりの作法・制度)が突っ走ってしまう、息をつめて順応するしかない。 そこで人文とは、《引き受け直し》に関わる事業だと思う――とはいえ、それ自体が目的化してもしょうがない(密度の高い仕事が始まらない)。


映画に登場する「国際哲学コレージュ」に招かれ、フランスに赴いた経験のある市田良彦氏の会場発言:

  • コレージュから人が離れて行ってる。 なぜかというと、面白くない。 「関わったらエライことになる」という印象。
  • 教員たちが、みんな同じこと言い始める。 そういう意味で、映画自身がコレージュの問題をよく現してる。
  • 礼賛ばかりでなく、辞めた人間にも話を聞くべき。
  • 「フランスは素晴らしいですね〜」ではどうしようもない。 自主ゼミなり何なりで、私たち自身が始めないと。
  • コレージュのようなシステムでは、どうしても人気投票的になる。
  • コレージュの論集『Rue Descartes』は、論文が定型化してる。 生産活動の質が落ちてないか。
  • 映画は章立てされて新書みたいだったが、新書でポツポツ語るのが哲学か?

関西弁でぶちまけられたこの「ちゃぶ台返し」を聞くためにも、私には上映会が必要だった。
ラボルド病院も、やっている趣旨はあれほど素晴らしいのに、フランスで一箇所にすぎない。


映画内でインタビューを受ける人たちは、「制度を問い直す制度」という事業趣旨そのものを説明していて、それ自体を繰り返しても自家中毒になる。 結局それぞれのジャンル・場所・関係性について、具体的に分節するしかない。 とはいえ、その《場所》*2はどう確保すればいいのか。


松葉祥一氏は、「デリダはコミュニティという言葉を本当に嫌っていた」という。とすれば考える必要があるのは、《にもかかわらずデリダは孤立しなかった》ということ。西山雄二氏の今回の上映活動も、呼び掛けたら即レスがいくつもあったそうだが、そのつながりをコミュニティと呼んではいけないなら、何と呼べばいいか。


ひきこもり・野宿者・無縁死など、本当に関係から切り離れてしまう人たち*3に比べ、運動家たち自身は、孤立していない。 そういう人たちが、集団的なイデオロギーとして孤立を称賛し(この矛盾)、実際の孤立に起こっているディテールを無視し、孤立者を威圧することがある(対抗するには孤立していては無理)。 ▼孤立していない人が孤立を勧めるのは*4、ご自分たちのイデオロギーに抵抗できない人を増やすための言説戦略になっているとすら言える。――《孤立の承認》は、あるイデオロギー作法の反復であり、それ自体が連帯を補強している。 つまりそこでは、自分たち自身が生きている《つながりの作法=制度》が、問い直されていない


ひきこもり業界には、「コミュニティ」が乱立している。 しかし多くは閉鎖的で、形容しがたいほど抑圧的になっている(お互いのナルシシズムを保護する環境なのだ)。 実態を言葉にすることも許されず、仲良くしなければならない関係*5、それをコミュニティと呼ぶなら、私には参加を維持できない*6


偽のつながりを拒否し、「哲学への権利」を言い続けたデリダは、野宿化も無縁死もしなかった。映画に登場したカトリーヌ・マラブーデリダについて、「勇気」という言葉で称賛していたが、「無縁死しない」ということは、「敵がいない」ということではない*7。――とはいえ、安易で慢性的な敵対関係に固着するのではなく、その都度の《分析への権利》をいかに守るか。(分析をあきらめて宥和するなら、「何に泣き寝入りしているか」にも気づけない。欲望を見失い、投げやりなルーチンだけになる。)

    • コミュニティを嫌う思想家が、しっかり独り居ることの重要さ、ありがたさが身にしみた(追随者たちがイデオロギー化する問題は残るが)。 私は自分のやっていることに意味がない、さっさと消失したほうが良いという気にもなっているが、その「消失せよ」という声は、じつは制度順応的なこの社会の雰囲気が、私につきつける恫喝でもある。 「お前が消えてもらったほうがありがたい。せいぜいガス抜きでいる間は許してやる」――この声は、国際哲学コレージュやラボルド病院じしんが受けているものだろう。



つながりの制度に順応していても、それはつながりとは呼べない。
この映画が問いかけているのは、制度とは別の《つながりかた》の問題であって、アカデミズムそのものはむしろ二次的な問いになる。 《つながり》は、市場にも、単なる再分配にも提供できない*8「自前でどうするか」が問われているのだ。



*1:以下の引用は、いずれも発言のごく一部であり、大まかな発言趣旨でしかありません。 発言者からの引用許可は得ておらず、趣旨と違っている可能性があります。

*2:物理的な場所だけでなく、《u-topia 非-場所》として、どこにもない場所を維持すること――映画内にあったこの説明は、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』座談会でもそのまま語られていた。 そういう非日常の場所がなければ、息ができないのだ。 問題は、この非日常の場所は、固定された瞬間つねに日常化すること。 場所の維持は、徹頭徹尾 俗世的で、日常的な業務になる。

*3:「ひきこもる人は親に養われているから孤立していない」というのは、もちろんその通りなのだが(親に囲われていなければ多くは野宿か死だろう)、それは命題としては正しくとも、問題に取り組んだことになっていない。 街中や隣近所での「なし崩しの死」は、すでに始まっている。

*4:吉本隆明ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)』が典型

*5:双方が「つながろう」と意図したって、つながれない。 そもそも、すでにある平和な関係じしんがとんでもない抑圧だ

*6:制度を問い直す運動で「集団的合意形成」の問題が避けて通れないのは(参照)、このためだ。 ここを曖昧にして私が集まりを作ったところで、以前と同じ轍を踏むに決まっている。

*7:むしろ無縁死するのは、「敵がいない」人にも思える。 「敵がいない人には、味方もいない」

*8:「社会関係の再分配」(樋口明彦)といっても、親密圏は「官にもできない」(筒井淳也)。 私たちに必要なのは、ベタに仲良くしようとすることではない。 関係性への配慮のありかたそのもの(その意味での制度)を、考え直すこと、その見直しの活動をお互いの関係制度に根付かせることだ。 ほとんどの「うまくやれている人たち」は、すでに生きているつながりの作法を押しつけるだけ。 それを問い直すことを要求されると、激しく怒り出す。――関係作法は、「ナルシシズムの方法」になっている。