「ストレスありますよ」

先日TVで、「身体検査でストレスの有無を調べる」というウソの実験があり、次のような反応だった*1

 日本人は、「あなたはストレスが溜まってますよ」と言われると喜び、「ストレスがない」と言われるとガッカリする。 外国人は逆で、「ストレスがない」と言われると喜ぶ。

日本では、集団的威圧に耐えているという被害者意識が《承認チャンス》と重なっている。
これでは、「苦しい思いをしている」とアピールしなければ、「仕事をやってる」と見なされない。
《ストレスなく、楽しく生きている》という存在形態は許されない。 そういう場所で社会復帰を求められている。 ⇒ いちど脱落したらもう戻れない体質になってるのは、当たり前ではないのか。 (社会そのものが嫉妬とルサンチマンで秩序化されているのは、日本だけではないはずだが…)


「自分が耐えられない」は、「政治的・倫理的にまずい」と同時に検証される*2
多くの人は、「自分が耐えられるのだから、政治的にも正しい」 いやむしろ、「自分が耐えてるのに、あいつは耐えていない」になる。 これでは、集団が反復する「無理のあるパターン」が改善できない。



*1:実験によるあからさまな《対象化》だが、こういう趣旨を日常化したい。 「お互いの規範的リアクションを素材化し、検証する」。 お互いにメタとオブジェクトを往復しあう関係性。

*2:必ずしも自分が正しいわけではない。 「苦しいが、ここは耐えるべき」だってある。 ▼問題は、その検証作業が孤立すること。ベタな承認とベタな禁止しかない。