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本エントリーをまさに公開しようとしたとき、酒井泰斗氏の新しいレスポンスがありました。

ありがとうございます。 そのエントリーより:

 そこで上山さんのエントリーたちのほうを見てみよう、ということにしてみると。 .....これが..... すごく...... 難解です。 一種独特の、ちょっと尋常じゃない難しさです。 いったい どうしたことでしょうか。

何がどう分からないかをさらにご指摘いただいていて、細かくは次回以降に取り組みたいのですが、ざっと拝読して強く思ったのは、次のことです。

  • 酒井さん(あるいはエスノメソドロジー)は、すでに営まれている秩序を、「うまくいったあとから*1、うまくいったものとして」描こうとされている。 《描くという行為》は、制度的に安定している。 【←むしろ問題はこっちです(2月1日の追記)。 私と酒井さんの「すれ違い」に見えるものの焦点は、《描くという行為》そのもののレベル(記述事業の性質)にある。】
  • いっぽう上山は、すでに営まれている秩序を、「自分や周囲の誰かが、耐え難い苦痛を感じているものとして、事後から秩序に送り返す形で」描こうとしている。 あるいは「いまだ秩序に参加できないので、これからどうしたらいいか」という課題とともに、考えようとしている。 与えられた制度的フレームに対して、《描く》というプロセスそのものが、政治的侵犯の要素を持っている。 【←これも、むしろ問題はこっち。私が固執する《描く》努力を、酒井さんのおっしゃる「[1] 経験科学の目標・理念は、対象に関する(真なる・新規性のある)知見を獲得すること」(参照)と別に語るべきか。】



《秩序》というのは、私にとって何か身を切られるような、耐え難い単語です。
差別的排除だけでなく、整然と並んだ机を見るだけで冷や汗が出てくる。
「うまくいった秩序」は、私にとって心身症のスイッチでもあります*2
その《秩序》を、「うまくいった内側から」描こうとされているなら、私が取り組もうとしている課題が、ぜんぜん見えないのかもしれない…。

    • 思い出したのは、「何が現代美術なのか」をめぐる、岡崎乾二郎氏と斎藤環氏のやり取りでした(参照)。 何が「現代美術」であり、何がそうでないかの線引き(という秩序)は、どういう考え方で行われているか――岡崎氏はそこまで問い直し、斎藤氏はその線引きを自明のように見ている。 また岡崎氏は、結果的に仕上げられる作品だけでなく、それを目指すプロセスにも言及されています(「見えない生産過程のほうを模写しようとすると」云々)。 私が《プロセス》に言及するのは、秩序の参与者としての、秩序の制作過程のことです。 私の精神活動も、周囲との緊張関係の中で織り成されるプロセスです。 ▼ そこで「相互作用類」は、構築された結果物です。(相互作用類が構築され、運用される秩序過程に、人々は参与している。)
    • 自己執行的であっても、固定的な役割アイデンティティは、私には耐えられません。 そこで実体的な「役割アイデンティティ」の代わりに、《分節プロセスとしてのアイデンティティ》を立てたい(苦痛緩和のために)。 状況への分節労働として、プロセスのかたちで生きられるしかないアイデンティティを、固定された「相互作用類」に対置すること。 私が「コスプレへの監禁」などとして、自分が実体化される関係秩序に抵抗しているのもこの話です(もちろん差別論は同じモチーフです)。 ▼実体同士ではなく、プロセス同士の秩序を語ることはできるか――私の問いはそこでつまづきます。 ほとんどの場合、社会的な承認関係*3は、《実体への承認》という形をとるからです(「売られている商品」や役割カテゴリーなど)。 私は、《秩序に適応できる社会性》を生きにくくなっている人間のひとりとして、新しい社会性のあり方を模索し、提案しているのだと思います。 すでに持続的な秩序参加に成功しておられる酒井さんには、ひょっとするとこの問いのポジションはないのかもしれない…。(私は斎藤環さんには、自分と同じ問いのポジションを読み取れなかったわけです。)
    • 《分節プロセス-を-記述する、この赤字部分が構成されるプロセスの苦しさや暴力を、私はひたすら話しているのです! 《記述する》、その行為がプロセスとして構成される難しさ、また、(被支援者の場合)最初から置かれている被差別ポジション、など。 描かれる対象として実体化されるアイデンティティ(相互作用類)ではなく、描くプロセスとしてようやくまとまりを作る、バラバラになった私。 プロセスを中心化する《耳》の前でしか、居場所(アジール)を得られない議論。 ▼たとえば数学では、これらのモチーフはあり得ません。 数学の難問に取り組んで精神に破綻をきたした人は何人もいるそうですが、そのことで数学という事業じたいが妥協することはあり得ないし、「誰が語ったのか」という情報も、証明には関係ない。 だからこそ、ジャンルとしての権威性が保たれているのだと思います(描かれるべき真実はたった一つ、絶対的で、実はそのことに私自身も憧れを持っています)。 ところが苦痛緩和に照準している私は、最終的に記述される真理の前に、《その記述事業が固定されているのは、まずいよ》という話をせざるを得ない。 結果的に語られたことの厳密さの前に、「語っているプロセスの無理のなさ」や、「語り手が差別されている文脈」が優先され*4、しかもそれは妥協ではなく、その留意がなければ事業が成り立たないような、別の種類の厳密さ*5に最大限配慮した努力です。 つまり、「そういうスタンスでしか緩和できない苦痛がある」という臨床上の主張であり、これはそのまま、つながりを作ろうとするときに選択される作法そのものだと思います。 私は、相互作用類や結果物だけに照準する人間関係には、とても耐えられません。――後日あらためて取り上げる必要がありますが、この追記部分だけで、かなり核心に触れているようにも思います。


      • 【2月1日 追記メモ】: 《語っているプロセスの無理のなさ》は、単に「本人に負担かどうか」だけでなく、政治的・倫理的負荷を帯びている。 《「無理のある分節」は、不当な政治的居直りを行なっている》という主張にあたる。 数学ならば、数学的真理そのものは「人間にはどうしようもない」レベルだが、人間集団の目指す着地点は数学的真理ではない。 反復するパターンに織り込まれた目的地は、(誰の利益になるのか知らないが、)恣意的なものでしかない。 ▼人間の順応事業では、集団が反復する恣意的かつ硬直したパターンが「逸脱」を決めている。 プロセスが生きられた瞬間に、「どういう繋がりしか生きられないか」が決められている。 ▼《硬直した順応が達成すること》と、《逸脱的だが厳密な生成だけが実現する分節》を、分けて考えること。 硬直した順応にしか達成できないことがある。しかし硬直した順応しかないというのはおかしい。 ⇒ さてそこで、《逸脱的な分節》は、「お前の恣意でしかない」という論難に応えられるのか。 数学的真理を目指す証明は、着地に成功して初めて「プロセスは恣意的ではなかった」とされる。 それでは、同意されない記述を様々にやり直すとして(参照)、しかしその同意そのものが恣意的ではないか。 記述プロセスは、やっている本人にいくら主観的必然性があっても、集団的合意はどうやって(どういう言語と手続きで)取り付けるのか? 聴き手が同様の分節を構えとして持っている場合にのみ、“偶然的に” 同意するしかないのではないか?



酒井さん:

  • 【Qp】 「ひとは如何にして或る場所の参加者となるか」「ひとは如何にして或る場所の参加者であることをするのか」

  といった問いは、エスノメソドロジーにとってとても本質的な問いである。 予備考察

《参加(参与)》は、社会学にいう「秩序問題」を、別の角度から描き直したものだと思います*6。 私と酒井さんのすれ違い(のように見えるもの)を、「《参加(参与)》をめぐる問いの立て方の違い」と整理できるかもしれない。

    • 「こう書いてあることの意味が分からない」というご指摘は、私にとって本当に貴重です(言われるまで気づかない曖昧さもあります)。 ルーマンなどの超難解本を読破される酒井さんが「難解です…」とおっしゃることから、自分の表現のダメさに直面するとともに、「そもそも動機づけから、議論の組立が違っているのかもしれない」とも思わせられたのでした。
    • 今回冒頭のエントリーは、部分的にはすでにお返事になっていると思います。 つまり、「単に順応する」のとは別の仕方で、秩序を話題にすること。



(5/6)につづく】


*1:《事前/事後》として私が論じているのは、赤字の意味なのですが…

*2:中学時代、教室に座るたびに水状の下痢が始まったことと関係していると思いますが、逆に言うと、なぜ中学で「教室に座るだけで」そんなことになったのかが分かりません(当時の私は受験勉強を頑張っていて、主観的には参加意欲に燃えていたので、自分の身に何が起こっているのかが本当に怖かった)。 教室に限らず、人間関係に秩序らしきものが現れると、それ自体が過激なアレルギー反応の源になり、それは私にとって倫理活動のリソースですらあります。 酒井さん(とエスノメソドロジー)の議論には、この「論じている側の苦痛」が感じられず、それが私にとってずっと違和感として残っています。 【※神経性の下痢症状は「過敏性腸症候群」と呼ばれ、「男性の1割が苦しんでいる」というニュースもあります。】

*3:合意に基づくお互いの社会性

*4:とはいえそのレベルでは「厳密な分節」を行なっているのですが

*5:この厳密さのあり方をこそ描かなければ…(独り言)

*6:これまでの社会学が中心テーマにしてきた「秩序問題」と EM の関係については、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.59,68 などを参照。