環境の秩序と、《ふさわしいあり方》



私は、酒井さんが私に要求された努力を、全てのポジションのかたに求めています。 もういちどご発言から引用します(強調箇所は原文通り

 たとえば、支援現場では「学校的なもの」が嫌われる、というようなことがあるのかもしれません。けれども、そうであるならば、知識を使うときに・それが「学校的なもの」に見えないようにデザインすればよいだけのことです。それが出来ないのなら そんな知識は使わないほうがいいでしょうし、逆にそうした知識が どうしても必要であるのなら それが手になじむなるくらいに・自在に使えるように 自分を 訓練すべきでしょう。そして ・・・これは、学問の問題ではありません(個々人が──「学問」を含む──様々な知識とどのように付き合うか、という問題です)。

これは部分的には、「エスノメソドロジー(EM)の実践的な課題にあなたも取り組んでみればよい」と、今の私には読めます*1。 そしてそれは、一歩まちがうと「その場の方針に順応的に振る舞え」になる。


たとえばエスノメソドロジストは、ご自身が所属しておられるアカデミズムという 《場所=人々の方法 ethnomethod》 を、問い直せるでしょうか*2。 「アカデミシャンにふさわしいあり方をする」だけなら、《場所》が反復する病んだあり方を話題にできなくなります。――私はけっきょく、この話しかしていません。
「順応的に」というのは、何も「権力に強制されて」というだけではない。 例えば引きこもる人なら、その状態が完全に固定されて反復してしまい、検証もできないまま惰性的だったり暴力的だったりするしかない。 自分とその周囲が苦しむあり方が固着し、人やモノや制度との関係を組み直すことができずにいる。


これは、様々なジャンルやレベルで問えます。 たとえば、

    • 日本の精神科医の登用システムは、「向いてる人こそが精神科医になれない」状態にある。基本的には物質の学問である身体医学と、同じ入学試験&教育プログラムであり*3、20代でいちど医師国家試験に合格してしまえば、一生そのまま。 逆に医師以外の関連専門職(看護やPSW)には、身体医学や薬学の専門技能を高めるプログラムも資格もない(⇒医師の権威性と「それ以外」の過剰な分断や、専門性に対するチェックのなさが、「人々の方法」になっている)。 ▼DSM 一辺倒の診断システムが採用されて以後、「優秀な人が精神科医にならなくなった」と言われる*4。 私は以前に精神科に通院していたが、「患者としてふさわしいあり方をする」ことは、それ自体が病んだ制度に順応することでしかない。たとえばそこで私が問題意識を開陳すれば、「頭でっかちの患者が来た」と揶揄されるだろう(すでにされている)。担当医との関係を良好にすることは、「人間関係」レベルでは可能かもしれない。しかしそこで、問いはあるレベルで封印されている。 役割関係が《場所》への問いを封印しているなら、封印そのものが問われるべきだが、多くの場合それは許されていない*5



――同様の《場所》への問いを、さまざまな関係性や制度について問おうとしていて、そういう問いを持つ方の議論をこそ聞きたいし、その取り組みに合流したい*6。 しかし今はどこでも、その場の《人々の方法 ethnomethod》に単に染まることだけを要求されるので、それは結果として、「人が元気に社会参加できるようにしましょう」という事業意図すら裏切っているのではないか。 視野狭窄的に《順応》を目指すと、かえって順応できなくなる。 そこでは、順応しようという企図じたいが目的達成を阻んでいる(マクロに見ても)*7


酒井さんは「それは学問の問題ではない」とおっしゃるのですが、とりわけ苦痛緩和を目指して人が人と接する、それも社会参加そのものが問い直されるジャンルでは、「学問そのもの」も、具体秩序の共犯者になっています。


最近は生活環境・情報技術など、あらゆる場面で《それをどう構築するか(どう構築されているか)》が問われていますが、《自分の人間関係をどう構築しているか》が問われていません*8お互いがどういう情報処理の指針を持っているかは、お互いの《情報環境》であり、お互いの Quality of Life に大きく影響するというのに。――このレベルで設計と秩序化の指針を問わなければ、苦痛緩和には取り組めません。


酒井さんが「脅威の単純化野郎」と呼ぶギデンズは(参照)、専門性を《脱埋め込み(dis-embedding)》として語りましたが、いま問題なのはむしろ、「ベタな専門性に安住するという埋め込み」であり――というより、あらゆる場面が「自分はこれでいくしかない」の居直りで、それがお互いを追い詰める形になっている。(それが医師や学者の場合、「相手を安易に対象化する」という形になる。)


私が「フレンドリーなあり方」に警戒するようになっているのも、こうした理由です。 親しげな態度には、その場の《親しさ》がどういう作法に基づくか、問い直すことを許さないところがある。 秩序化の作法を問い直さないまま《親しさ》をベタに生きることになっていれば、私はそれこそが苦痛の秩序(ethnomethod)になります。 関係スタイルの党派性*9は、意識されません。 そこでは、学問が身分関係と織りなす秩序は、問われもしないまま固定されています。







*1:「EM の研究過程も、分析が盛り込まれたEMの研究成果も、(略)チュートリアル(個別指導)的な特徴をもつ」、「実践の参加者たちにとっての実践的な課題」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.250,vii

*2:私の EM への問いは、まずここに集約できます。 たとえば酒井さんが勧めてくださった《調査倫理》(参照)は、実務としてはエスノメソドロジーの形を取らないでしょうか。 ⇒ EM には、「アカデミズムの自己チェック機構」という側面がないかどうか。

*3:精神科医の側には、「身体医学は科学なのに、精神医学はそうなりきれていない」という劣等意識があり、それゆえ過剰に “科学的に” 振舞おうとすることがある、という精神科医じしんの声を、たびたび伺います。

*4:心的外傷と回復』p.393-5、中井久夫による訳者あとがきを参照。 ただし DSM は、そもそもが「米国精神医学の伝統に対する一種のクーデタとして行なわれた」ものだった(同書)。

*5:同じことが、職場環境について問えます。 そしてこの《問いの封印》は、場所の秩序化の要素になっている。 「あたりまえの秩序」を問い直すことを始めてしまうと、秩序は破壊されます。 ⇒むしろ、この問い直しの作業をこそ協働事業にできないものか。

*6:画家の永瀬恭一(id:eyck)氏と議論をご一緒させていただいた時も、同じモチーフに照準しています(参照)。

*7:厚労省やそれに関連する「若者支援」は、このロジックに気づかないまま数百億円を投じました。 社会参加の活性度は景気にも関係するはずですが、経済学は、関係性を原理的に問うことを封印したうえで論じているように見えます。 ▼逆にいうと私の議論は、《社会的行為の活性化》に対する処方箋を、苦痛緩和の観点から提出しようと試みるものと言えます。(それが「景気浮揚」と重なるかは分かりませんが、「とにかく消費せよ」というのは、嗜癖の勧めでしかないと思います。)

*8:知識人たちは、自分の身近な関係がどういうマネジメント・スタイルになっているかを問うことを許さない(参照)。

*9:「誰と」仲が良いかという以前に、関係スタイルそのものの党派的固着があります。