《メタ/オブジェクトの解離》――事後的検証の拒否

学者や調査対象者だけでなく、どのポジションにいる人も、

 「自分が実際にやっていること」の機序と、 「それを正当化するメタ理解」

が解離しており、この解離じたいが秩序化の基本パターンになっています(解離的な正当化)。 そこで問うべきは、大きく次の二つになります。

    • (1)そこでいう《解離》とはどんなものか。 ふつう解離というと、精神医学用語だが(参照)。
    • (2)そこで悪いとされる解離は、秩序化(集団的な合意形成)に役立つ方針かもしれない。その解離がいけないというなら(秩序化のある方針を批判するなら)、合意形成について、新しくどんな方針があるのか。
      • 今回の一連の議論で私は、(1)とその周辺を整理するだけで、(2)は、むしろ私がこれから取り組むべき課題です。 私が《メタ/オブジェクトの解離》と呼んで主題化していることは、ある種の苦痛の核心にあることは間違いないのですが、ではそれを丁寧に扱うとして、合意形成はどうするか。 私は《制度を使った精神療法》(Psychothérapie Institutionnelle)を参照していますが、それが 《制度 institution》 に介入的であるなら、必然的に《権力的な》ふるまいであるはずです。 ⇒ 合意形成の手続きを欠いているなら、まったく致命的な話です*1。 だとすると、それは既存の医療権威とは別の形で、権力のスタイルをこそ作り直す必要に迫られる。――まずは(1)の説明に戻ります。この章だけでなく、以下のエントリーでずっと続くモチーフです。



《実行動とその正当化》というと、ヴェーバーの理念型、マルクスの《イデオロギー*2、それにフロイトの無意識論などを関連して思い出しますが(参照)、「言っていることとやっていることの関係」は、思想の実態を探る焦点だと思うようになっています(「なっています」というか、この問題に圧倒されています)。


「人は意識している通りに目的をもち、その通りのことをやっている」としか理解しないのであれば、主観的意図のあとに言動を分析する必要はないし、「何かができないのは、それを望んではいないからだ」で終わりです*3


決定的なのは、「意識的に確保された正当性」しか許されないとしたら、その「生きられた秩序」をそれ自体として話題にした瞬間に、その場の秩序関係から逸脱してしまうことです。 場の秩序を生きるメンバーが、基本パターンとの関係で「自分はこれでいいんだ」と思い込んでいるナルシシズムに抵触し、問題意識を起動すること自体が許されない。 そうなると、「固定された基本パターン」との関係をひたすら気にするしかなくなり、これは自意識の地獄です*4


秩序のパターンを固定して、その枠内でアリバイを競うのではなく、秩序パターンそのものを話題にして、そこでお互いの関係を相談できないだろうか。 私が提案したい――というか、それなしでは「パターンが固着した秩序実践」が苦しくてしょうがないので、「ぜひこういうことを気にかけてもらえませんか」*5と思うのは、以下のようなことです。

    • 生きられた秩序を協働でリアルタイムに捉え直し、リーズナブルに改編すること。
    • そこで《社会性》とは、決められたパターンを生きることではなく、生きられた秩序パターンへの配慮を持てることであり、《社会性》という概念そのものが、苦痛緩和の取り組みに近くなる参照)。 固定された関係性があって、そのあとに苦痛緩和があるのではなく、苦痛緩和の試行錯誤が、関係性それ自体になる。
    • ふつう《労働》とは、固定された秩序パターンへの順応を意味するが(プロセスと結果物の社会性)、ここでは別のスタイルが、労働過程として許される。 関係性の分析を通じて、関係性のパターンそのものが創造的に生き直される。



ここに気づくことができなければ、問題に取り組む姿勢じたいが問題の一部になっているという固定された苦痛機序に、いつまでたっても気づけないと思います。



*1:合意形成の失敗は、それ自体が「苦痛緩和の失敗」をすら意味するはずです。

*2:彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっているSie wissen das nicht, aber sie tun es.)」(『資本論MEW, Bd.23, S.88、第一章第4節 「商品の物神的性格とその秘密」)。 ⇒ エスノメソドロジーの本を読んでいると、これと同じ問題意識がくり返し出てきます。 『資本論』それ自体は、「共産主義はこうあるべきだ」とか、「こうすれば革命できる」ではなく、「私たちの社会が当たり前に行なっている資本制的生産様式について、原理的なメカニズム(人々の方法)を考えてみよう」という研究事業だったはず。 たとえば価値形態論は、「エスノメソドロジー的無関心に基づいて書かれた」と言えないかどうか。(そこでは、貨幣への興味や、「商品という形態がいいのか悪いのか」という判断は停止されています。) ▼逆にいうと、EM では「その場の秩序」(全体性から分離されたその場の時間軸)が主題化されますが、マルクス主義の文脈にいる学者は、(EMの批判する社会学者のように)「背景にある秩序」を扱っているように見えます。マルクス主義者が、「目の前の関係」にデリケートな配慮をすることはほとんどない。彼らはメタ的に設定された運動イデオロギーで正義を確保してしまう(全体を支配する時間軸を生きている)ので、自分が目の前でどんな権力をふるおうが、そのロジックは検証されない。 ⇒「真理と方法」は、権力実務のスタイルまで規定します。 これは、「私たちはどのような権力を奪取し、構成すべきなのか」という問いと等しくありませんか。

*3:ここでは「差別する意図がなければそれは差別ではない」し、「思っているのにできない」という苦痛を考えることもできません。

*4:いちど “正常な人間” から逸脱すると、「正常さ」そのものを意識して生きねばならず、その自意識ゆえにますますできなくなってゆく(参照)。 「男/女」以外にも、多くのことを「操作によって生み出されたもの」(『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』p.318)と扱う必要があります。

*5:エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』第6章に登場するアグネスは、この呼びかけに同意してくれないのだと思います(p.311)。