被差別ポジションからいかに語るか (2/6)

(1/6)のつづき】   以下、お返事の本題です。

どの身分から語り、どの議論階層に言及しているか



たとえば数学では、「誰がその証明を語ったか」は、真実の構造に関係しません。 証明者の名前を伏せ、論文だけをチェックすることができます。 ところが私が問題にする《ひきこもり/社会参加》の領域では、「それを論じているのは誰なのか」が、ものすごく重大な情報になってしまう。 「○○当事者」にしか語ることのできない真実があるとされ、逆に、医師や学者でなければ信用されない語りがある。――端的にいえば、それは「不当な尊重」と、「不当な蔑視」が生じるフィールドになっている。


たとえば、こんなことがありました。 ある団体のイベントにパネラーでお招きいただいたとき、「準備会に参加したかったら○○円払ってください」と告げられた*1。 招いておいて、言説の生産者と見なしていない。 とはいえ招いているのですから、何かは要求されているわけです。――医師や学者がメタにあって、私のような「ひきこもり当事者」は、声ごとオブジェクト・レベルにしかない。 壇上で泣きながら「僕、苦しいんです!」とか言えば歓迎されるでしょうが*2、先生方と同じ階層での議論は許されません*3。 メタレベルの真実に食い込むには、私が何らかのポストを獲得すべきかもしれませんが、そもそも支援者(メタ)同士は仲が悪い。――本当に必要なのは、この「神々の争い」に首を突っ込むだけでなく、「メタとオブジェクトを切り分ける管理状況」そのものを主題化することです。 【PC(Political Correctness)的にばかりでなく、生じている苦痛の機序のゆえに。】


「人々の方法 ethnomethod」は、そのまま「苦痛の生きられかた」になっていることがある。 語りの階層秩序は、支援や親密さの秩序であると同時に、苦痛の機序そのものでもあり得ます。――とはいえ、単に「同じ権利で語らせろ」と言っても、あまり意味がありません。 そもそも、「誰がどういう権利で語るか(意味のある情報はどういうものか)」、それ自体が問われているからです。 逆にいうと、誰にどういう手続きで「専門家」の資格を与えるべきかも、簡単ではない*4
当たり前のように反復される《声の尊重秩序》が、それ自体として苦痛の形をしているかもしれない。 それなら、この問題の関係者*5自身が、苦しみのメカニズムに加担していることになります(ひきこもる本人自身も)。



私がこれみよがしにアカデミックな言葉を使うだけなら、おっしゃるような対策で良いと思います*6。 しかし、いわば口頭試問を受ける前に、「ひきこもり経験者だから受験資格がない」ような状況で、私が自分を「訓練する」とは、何を意味するでしょうか。 与えられた身分役割*7墨守し、言説の階層分けに留意しながら語るのか。――私は、メタとオブジェクトの関係そのものを全員が話題にすべきだ(それが苦痛緩和に必要だ)と主張しているので、言葉づかい以前に、支援業界の秩序そのものに拮抗しています。


表現レベルでいくら工夫しても、問題意識の内容が《場所=状況》のフォーマットに言及してしまったら、それはもう攻撃の対象になります*8。――ところがいくら「アカデミックに」喋っても、話される内容が向精神薬や「学問そのもの」でしかない限り、むしろ歓迎されたりする。 その議論は、その場と解離的な「単なるメタ」*9を提供するだけだからです。


ひきこもり経験者が「単に哲学を論じてる」のは、オブジェクト・レベルです*10。その場を支えるロジックを放置しているので、いくらでもトークを続けられる(飲み屋の哲学談義みたいに)。 それはむしろ、「ひきこもっていても、豊かな教養を謳歌できるんだ!」みたいな、ナルシスティックな「当事者肯定論」に落とし込めます。 いっぽう私は、そういうナルシシズムを固定する声の秩序を、それ自体として話題にしている。


(3/6)につづく】

*1:この支援団体だけが特殊、という意見もあると思いますが、これは「支援対象者の声は、実はオブジェクト・レベルにしかない」ことを如実に示す「リマインダ」になっていると思います。

*2:しかし「風俗嬢と同じで、賞味期限がある」とのこと(参照)。

*3:反論したところで、意見としての階層が違う。 私が『ビッグイシュー』往復書簡で斎藤環氏にぶつけたのもこの問いですが、それは関係性のフォーマットそのものを問うてしまうため、関係そのものを壊しかねない。

*4:精神や心理の支援ジャンルは、そもそもが「学派の百花繚乱」状態であり、精神医学や臨床心理学・ソーシャルワーク等の教科書も、それ自体としては(少なくとも方法論のレベルでは)部分的な参照しかできません。そもそも引きこもりでは、《順応すること》それ自体が問われているので、《学派への順応》それ自体を話題にできないような議論は、最初から問題を扱う能力をもっていません【ちなみに、マスコミや諸外国機関から「ひきこもりの専門家」と目されることの多い斎藤環氏は、ご自身で「ひきこもりの専門家はいない(育成機関がないゆえに)」と、挑発的に述べておられます(大意)。】

*5:支援者・学者・ご家族・苦しむ本人、それにその秩序の関係者(EM にいう「メンバー」)。 ものすごく大きく言えば、《承認された社会性》が生きられるパターンに加担しているすべての人々。

*6:私の語り方にも、改善の必要が残されています(それは私の中心的な課題ですらあります)。 とはいえ、まずは私自身が必然性のないジャーゴン使用をひどく嫌っていることと、私はブログでさんざん「難しい本」を参照しているので、最初から色眼鏡で見られています。 また、『「ひきこもり」だった僕から』(2001年末)という拙著は、アカデミックな言葉づかいはしていないはずですが、それでも一部から「難しすぎる」との苦情を頂いています。 ベタで受容的な人生論以外の「難しい話」に対するアレルギーは、本当に激しいものです。(役割適合的な「素朴な話」だけが許されている。) ▼一方で、「難しくてもいいから、専門的な話をしてほしい」と期待される医師や臨床心理士(制度的な専門性)に対しても、絶望が広がっています。専門性そのものが、全く信用されていない。(私が活動を始めた2000年の時点で、すでにそういう話が支配的でした。「親の会のベテラン」みたいな方は、専門知識にも詳しいのです。)――本当の問題は、「何をどうしようが、もはやどうにもならない」という絶望です。私の議論は、ひたすらその絶望の機序に取り組んでいる。

*7:しかし、その身分制ゆえに、一般ではあり得ないような受容的態度も取ってもらえる。 30歳を過ぎても、「全面肯定」してもらえるわけです。一部の対象者がそこに居直ります。

*8:これは、どの業界でも同じと感じているのですが。 私の EM に対する興味の核心は、EM が、この《メタ的フォーマット》に言及できるかどうかです。 ▼「ひきこもり経験者」という発言ポジションが同じでも、ご自分の生きる関係フォーマットを気に入っている人(ベタな埋没に納得していて、そのことにすら気付いていない人)からは、私の分析事業は支持を得られません。

*9:オブジェクトとしての知識や議論

*10:「○○君は、難しい話が得意なんだよね〜!」