「重要な社会問題」vs「あたりまえの日常」

酒井さん32より(強調は引用者):

 エスノメソドロジストが取り上げるトピック(or 対象領域)は、「苦しみのある」ものには限られない、ということです。 (略) 社会学業界の間でEMの悪名を高からしめた理由のひとつは、まさに、

  • 社会には「問題」や「苦しみ」が実際に生じているのだから、社会学者はそうした「取り上げるに値する事柄」を扱うべきであるのに、エスノメソドロジストは しばしば「ありふれた・あたりまえの・トリヴィアルな──したがって、取り上げる価値のない──事柄」を扱っている

ということだったわけですから。 いま私は、さしあたって直接には、

  • 「EMは、問題のあること・苦しみの生じているところも、問題のないこと・苦しみの生じていないところも、どちらも同じように取り上げる」

という この指摘を、

  • 「EMは 苦しみを和らげる活動としても理解できるのではないか」

という主張への──少なくとも部分的には──「反論」となるもの として対置しようとしています。 それはそうなのですがしかし、同時に直観的に思うのは、こうした姿勢はおそらく、「現実の尊重→苦しみの緩和」へとつながっていく論点でもあるのではないか、ということです。

まさにそう思います。
最初から「これは重要だから、努力しましょう」と言ってしまうと、そこではすでに

    • 何が問題であるのか  と同時に、
    • どのように取り組むべきか

が設定され、固定されています。 社会問題の構成は、取り組み方の構成と同時に起こっている。――その埋め込まれた固定こそが、苦痛の機序かもしれないのに。


エスノメソドロジー的無関心*1」(参照*2を、私は苦痛緩和に必要な技法として、事後的検証の前提条件として受け止めました。 「これは重要である」というイデオロギーを優先させるのではなく、苦痛が内発的にディテールを分節せざるを得ない、その生成の環境整備としての判断停止*3。 宙づりにされた真空状態での分節が、研究者・臨床家・患者のすべてにとって――というか、そういう肩書きポジションをお互いに分節することがその場の関係を変えてゆく。 その一連のプロセスが、そのまま苦痛緩和のプロセスになる。


状況に埋め込まれた秩序が苦痛の形をしているなら、それを変えざるを得ません。 その秩序の生態は、「人々の Ethno-*4」方法というより、自分を含んで生きられる《場所の Ort-方法です*5。 苦痛緩和の努力は、それを記述し・組み替えていく作業になる。

松嶋健 いや、だから自己分析といったときは、自分の置かれている場所みたいなものの分析だから。
上山: そう、場所。 場所という言葉が重要。 場所のメカニズムの分析なんですよ。*6

関係者全員を単独的な当事者にしてしまう*7この事業は、一人ひとりが編みあげられるスタイルを、集団で改善するような努力です。 誰かにラベルを貼って「当事者」にしたり、客観的真理をスタティックに建設したりする作業とは、事業趣旨が違っています。


誰かに頼ればいいというのではなく、むしろ隷属をあきらめることでしか引き受けられないプロセス。『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』でも、けっきょく問題は「当該組織の構成員にかかっている」とありますが(p.257)、記述の《結果》をどうするかだけでなく、メンバー自身の《分節プロセス》にも光が当たるべきではないか、ということです。

    • ハイデガーなら、EMを無視することを、あるいはEMの結果だけを利用することを「頽落」と呼んだでしょうか。 また場所やプロセスの主題化を、私なりの「本来性」と呼べるかどうか。 ⇒【エントリー数時間後の追記】: 私的なつぶやきとしてしか意味のない発言で、お返事に記すには不適切でした。失礼しました。


*1:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.255

*2:【1月21日の追記】: このリンク先の「エスノメソドロジー的無関心」の説明は、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』でなされている説明と、意味が違っています。 書籍では、「研究者は、自分たちの価値で対象を評価しない(価値的に判断停止を行なう)」という意味ですが、リンク先では、関心があるかどうかは対象者の問題になって、「人々は、現実は本当は何であるか、何が重要であるかに関心がない(自分たちの方法をわざわざ自覚したり検証したりはしない、ベタに生きてるだけだ)」という説明になっています。 ▼私の酒井泰斗(contractio)氏へのお返事は、すべて前者、つまり「研究者側の手続き的な無関心」という説明(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.255-6を咀嚼)に依拠しています。

*3:それは現象学的還元と同じく、症候のように「向こうから襲ってくる」ものでもあると思います。

*4:「《エスノ》という言葉は、ある社会のメンバーが、彼の属する社会の常識的知識を、《あらゆること》についての常識的知識として、なんらかの仕方で利用することができるということを指すらしい」(ガーフィンケル、『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』p.16)

*5:たいした根拠も説明せずに新しい言葉を持ち出すのは、幼稚の誹りを逃れませんが、「私は今このあたりで考えています」という提示として。

*6:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.232

*7:【エントリー数時間後の追記】: ここ、無理のある言い方をしてしまっています。 関係者の全員に、《単独的な当事者性》を引き受けることを要請しつつ、しかしすでに首尾よく環境順応している人は、わざわざ自分の生きている《場所》なんか、(エスノメソドロジー的無関心に従ってまで)分析してくれないかもしれない。そういう人は、生きられた秩序を分析したり、組み替えたりする動機づけを持っていない。そしてそういう人が多数派だったら、いくら「場所の方法を記述」しても、捨てられてしまうでしょう。――ここで、集団的意思決定の問題に直面します(参照)。 エスノメソドロジーは、記述の結果が受け入れられない(価値を認められない)ことについては、どう受け止めるのでしょう。(また新しい質問になってしまいますが…)