震災から15年たつが、この日付で立ち寄ったのは初めて*1。
夕方5時46分からの黙祷に参加。 少しだけ15年前の空気を思い出す*2。
モニュメントにも立ち寄り、供えられたお花などを見ながら、1時間くらい過ごす。
夜11時から、NHKドラマ『その街のこども』を視聴*3。
「面白いお話」ではなくて、こういう趣旨のドラマをもっと見たい。
要するに私は、体験を検証するための《場所》になるような作品を求めているし、自分のその欲望に、社会的な居場所を与えようとしている。(それは、「自分個人が全面肯定される」のを望むこととは違う。*4)
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- 自分で物語ることも含めて、「ドラマ仕立て」というのは、体験を捉えなおす補助になる。しかし一方でそれは、主観的な思い込みの暴力を忘れてしまう。 何かが《組織される》というのは、どう頑張っても暴力になってしまう。 「当事者の語る物語だから、全面肯定されなければならない」のではない。 それは検証素材(リマインダ)に過ぎない。 ▼逆に言うと、「組織すること」の暴力を恐れていると、何もできない。何の手続きもない、「暴発」しかできなくなる。
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- 「当事者の語る物語」を全面受容するしかない文化に、私は別の《場所の作法》を持ち込もうとしている。 ▼個別の「重要な問題」ではなくて、むしろベタな作法とは別の、《場所=関係》の作法をこそ位置づけようとしている。