提供される《場所》のちがい

私は、「再考察の機会」という意味での《場所》を、ブログなり会話のプロセスとして提供していたのだと思う。 それに喜んでくださる人も多くいた。 「ここでなら、考えてもいいんだ」
ところがまた別の人たちは、自分のことを全面受容してくれるという意味での《場所》*1を求めていたし、支援者も、幼児対応でいいから「とにかく受け入れる」という姿勢で、だから《再考察の場所》は拒否される。


私に嫌がらせをした「当事者」や、発言活動をやめさせようとした「支援者」「研究者」たちは、私のような再考察の場所を排除することで、自閉的な受容共同体を作ろうとしているんだろう。 私からすれば、それは引きこもりのメカニズムを強化するマッチポンプだが、彼らなりの共依存が成立してしまえば、それ以上の動機づけは難しい。


《再考察》を拒否し、自閉的メカニズムはそのままにして、そのくせ私に「都合の良い環境を作ってほしい」という。――これはけっきょく、私を道具として利用しているだけだ。 それでも再考察を呼び掛けると、「利用価値のない邪魔な道具だから嫌がらせをして排除しよう」と。


今日気付いたことだけど、何か決定的な気がする。

      • 【追記】: ひきこもりの業界だけがそうではないし(だから《社会性》そのものについて考え直さざるを得ない)、私がその業界から恩恵を受けなかったわけでもありません。自分も引きこもらざるを得なかった私が、自分と環境のどちらかを単に否定するのではなく、《問題への取り組みかた》を考え直す作業です。 「問題を解決しようとすることが、ますます問題をこじらせる」というメカニズムを、軽く考えるべきではない。(単なる真面目さも、単なる投げやりさも、自分をふくむ《場所の方法》を放置することです。)




*1:ネット内外