政治と厳密さ

完全なる証明

完全なる証明


やや現世的な感想

  • 社会がイヤになる理由は政治だが、人に関わる理由が残されるとしたら、政治しかない。
    • あれほど傑出していても、ろくな支持を得られない。 人々の小心さ、理解能力のなさ、ルサンチマン
    • 政治を軽蔑するペレルマンには(p.125)、人とかかわる理由がない。 会話ですら、「集団的な意思決定」。
  • 全体主義のなかで、数学は厳密さを保った(p.44)。 しかし数学も、「集団の問題」から逃げられない(参照)。
    • 数学の論文ですら、メディア事情が命運を決める(p.235)。 臨床に関わる者が情報媒体の問題を考えないのは話にならない。
  • 極端な固執にしか、変化は起こせない。 しかし「極端さ」は、たいてい凡庸な逸脱にすぎない。
    • 殺人や切腹は、やっている本人を注目させるだけで、本質的なことは何も変えない。
  • ペレルマンは才能ゆえに注目されたが、「政治のできない人」は世界中に何十億人もいる。 これからも。
  • どの制度*1を残してどの制度を解体するか。 そこに利害と臨床がある。
    • たとえば「民族」という制度はなくすべきだが*2、数学という制度はなくせない。
    • そもそも「宗教」は、数十億人が同時に支持している。とても変えられない。


 異常者と見なされるのは、倫理基準を破った人間ではない。私のように孤立した人間だ。ペレルマン*3

    • 理解されやすいように薄められた嘘の話こそが受け入れられる。 ペレルマンには決定的な証拠と数学言語があったが(p.266-7)*4、普通はそれすらない。 誤解されたまま、「なかったこと」にされてゆく。

 興味があるかどうかは、その問題が解ける可能性が多少ともあるかどうかで決まるんです。ペレルマン、p.175)

    • このままではまずいと誰もが思うのに、どの回路で何を変えれば少しでも良くなるかが分からない。 妥協と無関心と、ゴネ得だけが進んでゆく。 「どうせ不完全な審判しかいないから、真剣に考えた人間の負け」




ややSF的な感想

  • 人間という現象の能力をいくら高めても、どうにもならないのでは。 退屈で残酷な現世への監禁。
  • 量子がどうとか言っても、意思決定に別原理を出せるのでないかぎり、何も変わらない*5。 発話や証拠確認の手続きをすっ飛ばして(議会や裁判なしに)決められる現象になるには。
  • 「お金儲けだけの社会はまずい」と19世紀には気づかれていたのに、「じゃあ計画しよう」としたら、権力機構そのものが大量虐殺装置になった。人間という現象は、集団的意思決定という契機を抱えているゆえに、これからも苦しめ合う。
  • 人類史レベルでの青写真を探している。




*1:社会保障制度」みたいなものだけでなく、精神的な努力パターンも《制度》として考える議論があります(参照)。

*2:そもそも《民族》という差別的発想そのものを、人類史レベルで批判すべき(「大阪人」と「東京人」みたいなもの)。とはいえ、地球政府レベルで考えないと無理。また少数派じしんが、「自分たちは○○民族だ」として、そこにアイデンティティよすがを賭けてしまったりする。

*3:「It is not people who break ethical standards who are regarded as aliens. It is people like me who are isolated.」Grigori Perelman,Wikipedia

*4:彼の辞職・隠遁(2005年12月p.250)が、中国人の論文騒ぎ(2006年4〜6月p.252-254)が起こる前だったことを確認でき、少しホッとした。(彼の受けたダメージが、思っていたよりも少しだけ小さい気がした)

*5:フロイトのテレパシー論はせいぜい事後的な確認でしかなく、「これから決めることがある」場合のツールにならない。