ノンケ――関係性のメインストリーム

26日の「虹茶房*1に初参加。

    • 以前から気になっていること
      • ブログ経由で私宛てにいただくメールの何割かはセクシャル・マイノリティのかた。
      • 不登校・ひきこもり」を看板にした支援団体や当事者系グループは、セクシュアリティを表向きには扱えていない(参照)。



ひきこもりとセクシャル・マイノリティは、問題のディテールは違うし立場も様々だが、今回は本当に話しやすかった。 個人的な相性もあるだろうが、「人権」とかの大文字の理念では関係は作っていけない*2、というあたりのお話(要するにある種の運動論)を共有できたことが大きい。


「価値観はさまざま」というが、私にとってそれは、つながり方の違いのことだ。
「同じ引きこもり経験者だから」というのは、つながれる保証にはまったくならない。経験に似通ったものがあっても、つながりを作ろうとした時にそれぞれが選ぶスタイルは、本当にバラバラなのだ。

今回は「ノンケ」、つまり異性愛者がテーマだったが、私からすると、性的少数者であることは、関係性のあり方が少数派であることのタイプの一つであり、問題の焦点は「性」というよりも、関係性のスタイルにある。だから私はセクシュアリティについてはノンケになるが、「男らしい男と女らしい女」というメインストリームの文化を苦痛なく生きる人たちに対しては、「彼らはノンケだが、自分は少数者」という位置づけで論じる必要も感じる*3(そして少数者どうしは、必ずしも相容れない)。



よじれたことに、実は引きこもり経験者には、性的役割分業について保守的な価値観の人も多い。つまり、「ひきこもっていた」という意味ではある種のマイノリティかもしれないが、その人が新たに関係を作ろうとしたときには、かつてのメインストリームの王道を押しつけることがある*4

つまり、「カテゴリー」で人を分けてマイノリティ性を云々するのは、なくすことはできないし必要な局面はあるのだけれど、具体的に関係を作ろうとしたときには、それとは別の注意が必要になる。


性的少数者のかたと話しやすいと感じることが多いのは、《関係の作り方》について、手作業で試行錯誤しなければならないことを前提にできるからと感じる。お互いに文化も嗜好も違うのだし、関係性は手探りするしかない。――そしてこれは、性的志向だけの問題ではない。メインストリームや、それとは別に「100%正しい関係」があるのではなくて、作り直すというプロセスの持続が必要なのだ。
ひきこもる人が求めがちな《純粋な関係》は、それ自体が(相手への幻想というよりは)関係性への幻想だということ。とすれば支援は、「都合のよい存在になること」ではなく、関係性への脱構築的な取り組み*5にある。


それなしに「仲良く」なろうとすると、誰かにとっての都合のよさに監禁される恐怖に取り組めない。


*1:学校で教えたい授業シリーズ(大阪)」におられた朝来駿一(あさご・しゅんいち)氏の主催

*2:「人権」という大文字のスローガンは、政策論や運動論に必要な局面はある。しかしそれだけでは、自分が「正しいことをやっている」と思ってしまい、目の前の関係性への配慮がなくなる。

*3:性的困難のかなりの部分は、「男らしい男と、女らしい女」というメインストリームの押し付けにある(自分でもいつの間にか隷属して幻想を満たしている)。 「成功したプロトタイプ」との比較で自意識を強めるのではなく、つながりかたを手探りするチャンスを持続させる必要がある(出来合いのパターンを確認させられる親密性が苦痛でならない)。 それは、「全面承認への幻想」ではない。往々にして「全面承認」論は、それを得られたと思い込んだ人たちによる、事後的な自慢話でしかない。必要なのは、事前かつ「最中」の試行錯誤だというのに。

*4:そういう融通の利かなさが社会に参加できない理由の一つだったりもする。

*5:重要なのはその持続であって、郵便的事情を把握してそこに居直ることではない。