ドゥルーズが解説する、グァタリの中間集団論

一般意志2.0」の議論では、「中間集団の否定」という文脈で、
ドゥルーズの「非コミュニケーション」が引用されています。*1

 言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。 ジル・ドゥルーズ記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』 p.352、ネグりによるインタビュー)



一方ドゥルーズは、『アンチ・オイディプス』と同じ1972年に出た『精神分析と transversalité ―制度分析の試み』への序文で、以下のようにグァタリを解説しています。 やや長いですがここで彼は、単に差異のざわめきに身を任せるといったことではなく、集団のなかでの契約関係を徹底して問題にしています。

    • なおこの序文のタイトルは、邦訳では「三つの問題群」となっていますが、原題は「Trois problèmes de groupe」。 これは、「集団にかんする三つの問題」ではないのでしょうか。 内容的に「三つの問題」を挙げているだけでなく、この序文は最初から最後まで、ずっと《集団のあり方》を問うています。


 グァタリは、自我の統一(unité d'un moi)の問題で頭がいっぱいになるということはない。 自我はむしろ、政治力と分析力を結合して攻め込むことで解体*2すべきことがらに属している。 「我々はみな小集団である(nous sommes tous des groupuscules)」というグァタリの言葉は、ひとつの新しい主観性の探求をよく示すものである。 この集団的主観性(subjectivité de groupe)は、自我あるいはさらに悪くは超自我の再構成をどうしても性急に求めがちな一つの全体性のなかに自閉するものではなくて、分割も増加も可能であるうえに、相通じあい、またつねに解除可能ないくつかの集団に広がる*3ものである(s'étend sur plusieurs groupes à la fois, divisibles, multipliables, communicants et toujours révocables)。
 良い集団かどうかの判断基準(critère d'un bon groupe*4は、その集団が、(略) みずからを二つとない不滅の意義深い存在であると夢想していないということであり、逆にその集団がある外部に通じていて、「まさに他の諸集団に開かれているがゆえに」、その存在が無意味や死滅や分裂の可能性に絶えず直面するといったていのものであるということである。 個人というものもそのような集団と見ることができるL'individu à son tour est un tel groupe)。 (『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』 p.1-2)

    • 「個人はすでにして複数だ」というのは、80年代の浅田彰氏周辺の議論で繰り返し出てきたスローガンですが、これが単に「だからこのままでいいよね」の事実確認でしかないなら、「複数であること」を美的に称賛して終わってしまいます。 しかし、「個人はすでにして複数である」というのは、個人がどう構成されるかは周囲の人間関係の構成事情に影響されるし、個人の精神プロセスやその参加状態を改善しようと思ったら、他の人たちとの関係のあり方そのものを改善しなければどうにもならないということでしょう。つまりここでは、中間集団のマネジメント体質こそが問われていて、それが個人レベルの精神科的臨床とリンクしている。


 こうした分析は、グァタリが隷属集団groupes assujettis)と主体集団groupes-sujets)のあいだに設ける区別に応じてその意味を増してくる。 (略) 隷属集団を特徴づける位階序列、垂直的もしくはピラミッド型の組織は、集団が無意味とか死あるいは分解などに内接するいっさいの可能性を払いのけ、創造的断絶の発展をさまたげ、他の集団の排除の上になりたつ自己保存のメカニズムを確保するために作られている。 隷属集団の中央集権主義は構造化、全体化、統合化という過程を経て作用し、真の集団的「言表行為」の条件にとってかえて、現実ならびに主観性から切断された型にはまった言表の配備をもたらす(substituant aux conditions d’une véritable «énonciation» collective un agencement d’énoncés stéréotypés coupés à la fois du réel et de la subjectivité)。
 主体集団(groupes-sujets)は、逆に、全体性や位階序列を払拭するような斜め性*5の指標(coefficients de transversalité)によって定義される。 主体集団は言表行為の担い手(agents d’énonciation)であり、欲望の支柱であり、制度を使った創造の要素éléments de création institutionnelle)である。 主体集団はその実践を通して、みずからの無意味や死あるいは解消にいたる限界に挑戦してやまない。 (同書 p.8)

    • 少なくともこの箇所では、「孤立したつぶやき」(参照)ではなくて、「集団的言表における創造的断絶」が問われていませんか。 言表そのものが集団性を帯びてしかあり得ない*6ので、私たちは自らの集団のありようを検討しなければならない(隷属集団ではなく、主体集団になっているように)。
    • またここでは、本人なりの分節の手作業が、「良い集団 bon groupe」の必須要素になっています。 個人の分節(≒énonciation)を威圧するような集団体質が糾弾され、分節を促進するような関係性が要求されている。(それが、具体的コミュニケーションをなくして各人をひたすら孤立させる方向なのかどうか。「一般意志2.0」の議論では、そこが問われているわけです。)


 制度を使った精神療法psychothérapie institutionnelle)に対するグァタリ独自の寄与はいくつかの概念からなるが、(略) これらの概念は一つの明確な実践的針路を持っている。 すなわち、制度のなかに闘争的な政治的機能を導入することであり、(略) 病院であれ学校であれその闘争においてどんな場所にでも適用可能であろうとする一種の《怪物》――生産しかつ欲望を言表する機械――を作り上げることである。 だからこそグァタリは「制度を使った精神療法 psychothérapie institutionnelle」という名より、「制度分析 analyse institutionnelle」という命名を主張したのである。 (同書 p.14)

    • 静態的に「精神療法」と名づけるより、《分析》という生成中の分節過程を強調した、ということでしょう。 その分節過程は、ラカン派のように「隠喩」に還元すべきではない(参照)。 外的世界の政治-社会的要因を含めてみずから分節する、しかもその政治性は身近な関係スタイルにこそ最も先鋭的に表現される。 なぜならそこでこそ、《社会性》のあり方が生きられているから――私はそう読みました。
    • むしろグァタリ(とそれを解説するドゥルーズ)は、《制度分析》をこそ、社会性の新しいスタイルとして提唱していませんか。


 また実際、トスケィエスFrançois Tosquelles)やジャン・ウリJean Oury)とともに姿を現わした「制度を使った精神療法」運動のなかで、精神医療の第三期がはじまってもいた。すなわち、法や契約をこえたモデルとしての制度l'institution comme modèle, au-delà de la loi et du contrat)である。 昔の精神病院が抑圧的な法律によって統制されていて、狂人はおしなべて「無能力者 incapables」と判断され、その結果理性的と見なされる存在を結びつける公式の契約諸関係から排除されていたということが事実である一方、フロイトの一撃は、(略) 神経症者と名づけられた広範な人々の集団を独自の手段で伝統的医学の規範に還元するような特殊な契約のなかに差し込むことができるということを明らかにしたことであった(自由な医学的契約関係の特殊ケースとしての精神分析的契約)。 (同書 p.14-5)

    • 精神分析 psychalalyse」は法と契約の枠内ですが、運動としての《psychothérapie institutionnelle》は、法や契約に順応するのとは別のかたちで《制度》を問題にしている。 臨床実践じしんが、《契約 contrat*7という社会思想の文脈でとらえ返されています。(法と契約を守ることこそが《社会性》と考えれば、ここで問われているのは、まさに「社会性」のありかたそのものです。)


 精神分析がまぎれこんだこの契約モデルの役割と影響は、まだじゅうぶん分析されているとは思われない。その主たる結果の一つは、精神病(psychose)が精神分析の地平にとどまり続け、あたかもその臨床的素材の正真正銘の源泉であるかのごとく見なされてきたにもかかわらず、他方で契約の範囲外のものとして除外されてきたということである。 制度を使った精神療法 psychothérapie institutionnelle」がその主要提案のなかに抑圧的な法の批判とならんでリベラルと称される契約の批判を含んでいるのは驚くにあたらない。 制度を使った精神療法」はそのような契約を新たな制度モデルでとって替えようとしているのである。(略)
 ウリ(Jean Oury)はこう述べている。

  • 「不誠実や下劣さを合理化するにすぎないような社会の合理主義がある。 旧習にのっとった何らかの “契約” を断ち切ったとき〔à condition d'avoir rompu un certain “contrat” avec le traditionnel〕、内側から視えてくるのは、日常的接触のなかにおける狂人との諸関係les rapports avec les fous dans des contacts quotidiens〕です。 したがって、狂人と接触しているとはどういうことなのかを知ることは、同時に進歩主義的になることだというふうにある意味で言うことができる。 (・・・・) 看護人-医師(infirmier-medicin)の関係そのものも、断ち切らねばならないこの契約に属していることは明白です。」 (同書 p.15)
    • ポストモダンというと、よく「相対主義」「バラバラ」が強調されますが、ここでは《契約 contrat》との付き合い方が問題になっています。 精神分析は、その源泉的な存在である精神病者を、自分たちの技法(≒契約)から排除している。 しかし《psychothérapie institutionnelle》では、まさにそのお互いの契約関係のありようこそがそのつど問われる。(契約を断ち切るといっても、単に「裏切る・反抗する」では貧しすぎます。共同で問い直すということでしょう。)
    • 臨床における契約のあり方(契約という枠組みとの付き合い方)が、その臨床を思想史的に位置づけ、中間集団の体質を決める。 臨床思想には、最初から社会思想(あるいは少なくとも「社会性の思想」)が、遺伝子のように組み込まれているわけです。
    • ここで臨床の技法(techniqueを、環境の技術(techniqueアーキテクチャに置き換えられるかどうか。 できるとすれば何に関して、どこまで。


 「制度を使った精神療法」のなかには、サン=ジュストを精神医療の文脈でとらえるという着想が含まれている。つまりサン=ジュストが共和国体制を、法ではなく(また契約関係でもなく)て、多くの制度によってpar beaucoup d'institutions et peu de lois (peu de relations contractuelles aussi)〕定義した*8という意味において、サン=ジュストからの示唆を受けているということである。
 「制度を使った精神療法」は、絶望的な契約形態のなかに再度もどりつつある反精神医学と、地区の枠づけ・精神測定の計画化*9といった、やがて我々にいにしえの閉鎖された精神病院を惜しむ気持ちを起こさせかねないセクトゥール制とのあいだにあって、みずからの困難な道を切り開こうとしている。 (同書 p.15-6)

    • par beaucoup d'institutions et peu de lois (peu de relations contractuelles aussi)」という一文では、《institutions(制度) / lois(法) / contrat(契約)》の関係が問われており、この部分を通じて、議論を整理できそうです。 もちろんサン=ジュストとウリやグァタリは違うわけですが、何がどう違うのか。
    • 反精神医学が、病者を「健常者と変わらない」とするなら、病者は単にふつうの契約に巻き込まれ、契約関係として包摂されるしかありません。 問題はむしろ逆です。 つまり、健常者どうしの関係性までふくめて、契約関係に単に順応するのとは別の形で取り組む必要がある


 ここにおいて、主体集団(groupes-sujets)を形成しうる《看護する者-される者》からなる集団の性格規定をめぐるグァタリ独自の問題提起がなされるのである。 (同書 p.16)

    • まさに中間集団の生き方をめぐって、ドゥルーズとグァタリのあいだに緊張関係がなかったかどうか。



思想の実態は、明示的に口にされたことより、その者が営む関係性のあり方(中間集団の体質)に現われると思います。――それとも《にんげんかんけい》や党派、あるいは《ミーティング》は、それなしで済ませるアーキテクチャが開発されるまでの、「原始的なやり方」にすぎないのでしょうか。



*1:以下、引用部分の強調は全て引用者によります。また、フランス語原文や最近の研究等を参照し、訳文を一部わかりやすく改変しています。間違い等がございましたら、是非ご教示ください。

*2:邦訳では、「dissoudre」が「解決」と訳されています。 しかしここでは、《解決=統合》を目指すような道行きそのものが問題になっているはずです。

*3:邦訳では「またがる」となっていますが、それでは威圧的な領土主義みたいになってしまいます。 ここではまさに、分析なしの党派的覇権主義こそが問題になっているはずです。

*4:邦訳では、「一つの集団が正しい集団かどうか」となっています。しかし、ここで問われているのは集団の、集団としての体質そのものであって、その集団が「イデオロギー的に正当化されているか否か」ではないはずです。 こうした訳語の一つ一つに、「一度ご破算にして素材化しなければならない場面を、最初から正当性を主張されたままのイデオロギーが蹂躙してゆく」という暴力を感じます。 ここでドゥルーズは、自分の生きている集団を素材化するときに注意すべき点を述べているのではないのでしょうか。 「あいつらの集団は間違っているが、俺の集団は正しい」と居直っているのではなくて、私たちが常に陥りがちな「まずさ」を整理している。

*5:「斜め性」という訳語は、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.26-7「トランスヴェリサリテ transversalité」解説を参照。 もとは「横断性」と訳されてきましたが、それでは「肩を組もう」というだけの党派的オルグになってしまう――として、概念が再検討されています。 「transversalité」は、むしろ所属集団の再検討に関する用語でしょう。

*6:ある集団では歓迎される発言が、別の集団では忌避される。 また自分の内面としても、「この人と話していると、頭もよく回るし、調子がいい」と思うことって、ありませんか。 そういう話だ思います。 無意識的なものを分節しやすくなるような field をお互いに用意できるかどうか。 またその《field =関係性》を、技法として分節できるか。 ▼政治的な環境整備と、臨床的な環境整備が同時に語られています。

*7:《契約 contrat》という概念が持つ思想史的な含みや事情を整理しなければ。

*8:「法律はほとんどなくさねばならない。法が多数あるところでは、人民はほとんど奴隷である」「我々の制度は多数あらねばならない」(参照

*9:この文章が書かれた1972年は、「精神障碍の診断と統計の手引き」(DSM)は「II」の段階(参照)。