千葉雅也 (参照)

* なるほど、ルソーの引用おもしろい。濱野さんが挙げた邦訳で「[一般意志との]わずかな差が多く集まって」とされているのは、différence という概念を、「〜との違い」という相対的差異としてとらえようとしているが、この原文は、それ自体として騒めく差異として理解されるべきでしょう。

*  communication なしでの déliberation(討議、熟考)。 ドゥルーズは、管理社会論のなかで、コミュニケーションは腐りきっているから、創造性は非コミュニケーションにしかないと言っていた。 そこには「非コミュニケーションによる共同性」というパラドクス的可能性がある。

      • 【※引用者による、本からの引用】: 「言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に浸食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。」 (『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』 p.352、ネグリによるインタビュー)

* 濱野さんがつなげようとしている降りる自由の問題も、非コミュニケーションこそを根本とするという考えで処理できそう。コミュニケーションに籠絡されきった世界でなく、バラバラの差異から出発すれば、「すべてが初めから降りているのに共同している」とでも言うべき状況を(超越論的に)考えられる。
* 原理的な「降りている」ことが権利上 de jure 肯定されることで、事実上 de facto なんらかの中断や無関心を肯定することもできる。 ドゥルーズはバラバラの引きこもり的「小さな世界」が分立したまま(非)関係しあうと考える。 これは一般意志2.0のアイデアと共鳴する。
* ドゥルーズのルソー論はあまり明確ではないが、ルソーが考える初期状態は互いの「孤立」であり、それが社会的関係(つまりコミュニケーション)を結ぶと抑圧的隷属を生みだすので、そうした悪しき帰結を排するような共同性を考えるのだ、という感じになっている。

* ロビンソンがフライデーを隷属化することが例として挙げられるので、むしろ無人島に徹底して引きこもった上で、他者とのいわば「非関係的関係」が可能になるようにするべき、という(のちに『意味の論理学』所収のトゥルニエ論で示される)アイデアが伏在しているようにも思える。

    • これでは、ドゥルーズがなぜラボルド精神病院でのガタリの取り組みを評価したのかが分からない。以下で言われている「非コミュニケーション」と、臨床実践としての「制度分析」の違いが重要。
      • 【2010年10月17日の追記】: ここには、「コミュニケーションは腐ってるよな」「うん、そうだよな」という、ギャグのような自己矛盾がある。 東浩紀や千葉雅也は、「中間集団はいらない」という方針によって中間集団を生きている。 ⇒「中間集団の要らない社会を創るための道具的党派(消滅する媒介者)」はあり得るが、そこまでしても残ってしまうのが《中間集団=党派性》とも言える。 友好的なつながりが反復されるときには、すでに何らかの作法が生きられ、お互いが作法を押しつけ合っている。 ▼中間集団は、「なくそうと思えばなくせる」というより、いつの間にか生きられてしまう無意識のようなものではないか*1。 うまく行かない理由はそこにあるのだから、照準せざるを得ない。 中間集団のいらない社会を技術的・制度的に目指すと同時に、むしろ否応なく残ってしまう中間集団的要素をどうするのか、そのことへの処方箋(技法や制度的整備)が必要に思う。――これはコミュニティについて、「意識すればなくせる」でも、「意識的に大事にしなくちゃ」でもない。 「意識的にはなくす方向を目指したいが、努力したところで残ってしまう、だからそこに工夫と技法が要る」という立場。

* 「コミュニケーションではなくむしろ非コミュニケーションが必要なのだ」というドゥルーズの議論を、たとえばネット利用を止めるとか、孤独に山ごもりするとか、そういうふうに理解するべきではないと思う。僕の解釈では、非コミュニケーションとは、コミュニケーションに内在する亀裂である
* そのことを直感させてくれたのが、初期のチャットだと思う。夜ごと仮面と仮面のすれ違いに、どことなく感じる「宇宙的郷愁」。素朴なコミュニケーションの連鎖が、潜在的に、何千光年のディスタンスによってひび割れているような。そのひび割れにおいて触発される官能性……。

*, * 非コミュニケーションのある種のタイプとして、ブランショみたいに顔を出さないとか、ああいうダンディズムの倫理って、ホントにどうでもいいと思うね。「顔を出しながら顔を出さない」というファンタスティックな術(じゅつ)を身につけるほうがずっと魅力的だと思う。

*  僕が言いたかったのは、「亀裂を持ち込む」っていう自覚的・能動的なことではなくて、もっと受動的な、あらゆる関係のあいだに何千光年もがあるなあという感慨のことです。そのつどの自分と自分のあいだにも、そういう何千光年もがある……。

    • ttt_ceinture: なるほど。じゃあ、合意に流されないように、とか、自分の問題設定を貫く、とか、そういう狭義の批評的振る舞いとは別の話だったのかな。

* そうです、狭義の批評的振る舞いとは真逆です。切断力とでも言うような勇んだものを求めるのではなく、合意に流されてもいいし、だらしないままで、しかしいたるところに亀裂が入りまくっていることを受動する(ことに官能性を見出す)といういわば「弱度」です

    • ttt_ceinture: まあえてしてこういうのは、戦略的に構想して、先取りする、というのが全然効かないので、カンじみたノウハウ、術が要請されるわけで、千葉さんが小林ゼミで学んだ云々というのはこういうことだろうと思いましたけどね。

* 無数の亀裂を通して、もはや相手の立場でも自分の立場でもないものへと受動的に変わっていく変身の術(かわりみのじゅつ!)です。互いをヘーゲル的に総合するのでもなく、コントラストを脱臼させる多孔性の境界から噴射される変身の靄へ。「カン」じみたテクネーで。

* バートルビー(についてのドゥルーズの論)*2はきわめて魅力的です。 「せずにすめばありがたいのですが」という静かな拒否。だが、そのとき彼は、多様体へと生成変化して旅に出るのだとドゥルーズは言っています(それがアメリカ的な希望なのだと)。




*1:情報断片としての無意識ではなく、「関係者に自覚されないフレーム」としての無意識

*2:※引用者注:批評と臨床【文庫版:『批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)』】所収の「バートルビー、または決まり文句」のこと。