《つながり方》という、集団的な意思決定のテーマ

 「重要なのは、事業仕分けは、完全に公開で行われた。政府が変えるのなら、こう変えますよという納得のできる説明を国民全体にしないといけません。そして、国民が徹底的に議論し、世論をつくって政府が決めていくことが目的でもある。 0.1%へのアプローチだけだったら、若者への施策になっていないのではないかとの問いかけもある。」 仕分け人の1人、元安孫子市長・福嶋浩彦氏



《個人が参加できない》というのは、臨床場面や職場の一つひとつにおいても、「集団的に決定されたこと」という側面を持つ*1。 現場におられる方々は、ご自分の方針について、さまざまなレベルで、リアルタイムの政治説得を続けなければならない(悩む本人も)*2
社会参加に成功している人たちは、自分たちなりのナルシシズム(のスタイル)で関係を作っているから、そこに入っていこうとすると、彼らのナルシシズムと戦わなければならない。そして(これが重要だが)ひきこもる人たち自身も、関係を作ろうとすると、まずは自分の思い込みを押しつけることしかできない。
私たちの悩み方は、刷り込まれた《つながり方》をひたすら反復し、そこに監禁されている。このレベルで技法を考え直さないと、予算をかけてもダダ漏れだ。

    • ひきこもる人だけを異常視しても、逆に「社会のせい」だけにしてみても、目の前の関係に取り組んだことにならない*3。 必要なのは、自己責任とも、単なる再分配とも別の仕方で、自分なりの作業を始めてしまうことで、それは何か、“政治的な” 要因を含まざるを得ない。




*1:かといって、「なんでも全面的に受け入れる」(参照)のは、全体主義でしかないし、サステナブルではない。経済的にもそうだが、関係としても続かない。

*2:支援対象者は、環境作成者の一人だ。そのことと、「就労」を分けすぎるべきではない。集団的意思決定をめぐる交渉主体になることは、すでに社会的行為になっている。

*3:ひきこもるご本人も、「自分はダメ」という陳腐な自責サーキットで遊びすぎ。